楽屋で、幕の内。|初めて世に出た言葉 July.21

 先日、あるライターさんに初めて名前が出た記事ってなんですか、と訊ねられた。はてなんだっけ? できあがった誌面を立ったまま両手で握りしめて、ジワジワと嬉しさを噛み締めていたのは記憶にある。しかしいつ、なんだっただろう。数日後、何かの拍子に、ああ、あれがあったと思った。記名記事ではないが私の身体から世の中へと出ていった初めての言葉がそれ以前にあったな、と。

 私がこの業界に入るきっかけをくれたのは、小さな企画会社だった。一人の現役女性社員をのぞいて1年以上勤めた女性はゼロ、という会社に何の疑問も抱かずに入った。そこに2年以上在籍したのは今も自慢でもある。

 事実、厳しい会社で雑用が中心ではあったが、私はかなりのことを叩き込まれた。多少の愛想があるのとパソコンが使えることだけで、よくまあ置いてもらえたと思うぐらい私は何もできなかったし、失敗ばかりしていたと思う。なのに、憧れのコピーライターを目指して業界に入ったのになぜ私は書かせてもらえないの! と毎夜憤慨ばかりしていた。

 入社して1年は経ったころだろうか。男性社員がもってきた案件に社員全員で案を出し合うことになった。ある有料道路がもうすぐ無料になりますよ、という告知をA3ポスターを使ってやるというものだった。それまでコピーの真似事しかしたことなかったが、社長の気まぐれで私も加えてもらえることになったのだ。

 やっときました出番、とばかりに自宅に持ち返ったはいいものの、カッコよくて美しくて、人の心をグッとつかんで、一度聞いたら忘れられないような、人につい話したくなるキャッチコピーは1本も浮かんではこなかった。湯水のように湧き出るはずだったのに。1日経ち、2日経って締め切り当日の朝、仕方なく苦し紛れに出した案は「ドーロヨロシク」。説明するのも恥ずかしいが道路をよろしくという意味の、なんと禁じ手のダジャレであった。

 しかし企画会議というのはその場の雰囲気である。もとい、雰囲気に左右されることが大きい。社長や先輩から予想通りの失笑をいただいたが、まあ話のネタにもなりそうだし、端っこにちょっと書いて出してみては? という話にまとまった。そして企画書の隅っこにちんまりと鎮座していた「ドーロヨロシク」だったが、なぜか広告代理店の会議でも目に止まり、なぜかクライアントへのプレゼンでも通り、なんと世の中に向けて走り出した。

 毎日の業務に追われて、もうドーロのことなんて忘れかけていたある晩のこと。いつものごとく、終電間際まで会社でだらだらと仕事をしていた私は女性の先輩に声をかけられた。

 ドーロヨロシク、見にいこうよ、と。

 ちょうどその日から電車の車内吊りチラシに掲示されていたのだった。滑り込んできた電車に乗ってみるとそのポスターはすぐにわかった。有料道路を背景に、赤い車の前でにっこり笑うモデルの女性。その一番目立つところに波打つようにデザインされた「ドーロヨロシク」の文字。私が思いつきで書いたコピーが立派な形になっていたことに少しだけ感激した。

 先輩は、下に立ってよ、写真撮るから、といって中吊り広告の、つまり動いている電車の通路の真ん中に私を立たせた。いいね、いいね、いい感じだね、といいながら、コンパクトカメラのシャッターをパシャパシャと切った。パラパラといた乗客の不思議そうな目と、蛍光灯の眩しさを今も思い出す。 

 私は恥ずかしくて少し俯いていた。撮影そのものではない。自分がベストと思って出した案ではないし、なんてったってダジャレだったからだ。するとその先輩はいった。男性社員たちをみーんなを退けて、山本さんのアイデアが通ったんやもん。こげんうれしいことはないもんね。ドーロヨロシク、私は好きよ、と。

 考えてみれば先輩だってこの業界に憧れてきたはず。そうか、きっと先輩も悔しい思いを何度もしたことがあったのかも知れないと気づいた。もちろん広告は多くの方に知らせることがいちばんの目的。しかし思いつきではあるが少なくとも、身近な方が喜んでくれた、それだけでもうれしいと思った。

 あのとき撮ってもらった写真はどこにあるだろう。のちにポスターももらって実家に送った気もする。「ドーロヨロシク」以降はスマッシュヒットはなく、どう考えてもマグレも大マグレ。でもあのマグレがあったからこそ、またいつかはという思いでここまでやってきたような気もする。少なくとも誰かにまた好きといってもらいたくて。

 ちなみにドーロヨロシクによって薄謝が出るわけでもなく、ボーナスが上がるわけでもなかった。

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