「見る」という暴力
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まず本記事は、「スキはいらないからコメントして!」
というnoteのコメント欄の延長である。
まろんはっぴさん、勝手にnote引用してごめんなさい。
差支えがあれば教えてください。
さて、タイトルの言葉は報道写真家の渋谷敦志さんの著書からの借用である。
貴方は、普段道を歩いているときに知らない外国人から、勝手にカメラのレンズを向けられたらどう感じる?
僕が一番印象に残っているのは、
カンボジア、プノンペンのストリートチルドレンにカメラを向けたら、子どもたちから獣のような目で睨まれた。
という一節。
これは、報道カメラマンvs世界最貧困層というわかりやすい構図。
例えば、
貴方は、感じたことはないだろうか。
巷で、珍しい動物を見るような視線。
僕が良く感じるのは、やたらじろじろ見てくるオッサン。
あれはいったい何なのだろうか…
逆に、若い女性の一人歩き(特に最近多いのは外国人)は目を合わそうとしない。
これは、防犯の観点からだろう。
でも挨拶はちゃんと返してくれる。:))
兎に角、僕の場合は圧倒的に同性からの視線を感じる。
若い男性の場合は何だろう?
ファッションチェック?
と言っても、新品の服なんか何年も買ってない。
どちらにしろ、あまり気持ちいいものではない。
外国の場合は、目が合う前にしゃべりかけてくるから楽だ。
ときには鬱陶しいが…
そしてほとんど外国人を見たことがないのだろう。
見たくなる気持ちもわかる。
自国民で同じ地域に住む同性をじろじろ見る心理、
どうなんだろう…
本題に戻るが、note含めたSNSで貰えるスキやフォロワー数、僕はあまり気にしない(ようにしている)。
お願いしてフォローして貰っても、その人が僕の文章を批判的(クリティカル)に見てくれるはずがないからである。
コメントを貰うと嬉しいし、必ず返信もする。
なぜなら、コメントをして貰えるということは少なくとも響いているということだから。
まぁ、僕はまだnote初心者なので、スキだけでも嬉しい。
もちろんフォローも大歓迎!
ただ、少し気になるのがfbの友達である旧友たち。
もう何年も連絡もコメントもイイねも押していないのに、ばっちりストーリーの足跡はついている奴らに対して、キモいという感情をもつことは理解できる。
というか、相手もそんなこと気にしていない。つまり僕ごときにどう思われようが気にもしていないのである。
というわけで気にするだけ無駄という結論にいまのところはなってしまう。
しかし、人を見るということは決してタダじゃないということ。
仮に貴方が他人を蔑みの目で見ていたら、それは廻り回って貴方に還ってくる。
羨みの目でも、憧れの目でも、それはあなたを幸せにしない。
いや、誰も幸せにしない。
そして、目が合ってないから気づかれてないと思っているかもしれないけど、
「いや、気付いてるから」
昔、ヤンキーたちが「何見てんねん」という理由だけで喧嘩を始めた理由がよくわかる。
兎に角、人のことばっかり見ている人は、
もっと自分磨きに頑張って頂きたい。
既存社会からの脱出に向けて。あなたと一緒に、さあ行こう。