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-四元論で遊んでみた・続 (八元論にしてみた)- [追記あり]

先日、「四元論で遊んでみた」という記事を書きました。

その記事が大変好評でして(わたしの中で)、なので、気をよくして、その続編を書いてみます。

前回は主に四元論で遊んでみることをテーマにしておりましたが、今回はどちらかというと、事実と受け取り方、というテーマで書いてみます。

事実には動かし難い事実があり、だけど、しかし、その受け取り方にも、色々な受け取り方がある、とわたしは思っています。

それでは、よろしくどうぞ。

①褒めたつもりだが、やはり褒めていた。そして、褒められたと感じた。
②褒めたつもりだが、やはり褒めていた。しかし、貶されたと感じた。
③褒めたつもりだが、実は貶していた。しかし、褒められたと感じた。
④褒めたつもりだが、実は貶していた。そして、貶されたと感じた。
⑤貶したつもりだが、実は褒めていた。そして、褒められたと感じた。
⑥貶したつもりだが、実は褒めていた。しかし、貶されたと感じた。
⑦貶したつもりだが、やはり貶していた。しかし、褒められたと感じた。
⑧貶したつもりだが、やはり貶していた。そして、貶されたと感じた。

①まともな人がまともなことをした。そして、まともなことだと感じた。
②まともな人がまともなことをした。しかし、まともじゃないと感じた。
③まともな人がまともじゃないことをした。しかし、まともなことだと感じた。
④まともな人がまともじゃないことをした。そして、まともじゃないと感じた。
⑤まともじゃない人がまともなことをした。そして、まともなことだと感じた。
⑥まともじゃない人がまともなことをした。しかし、まともじゃないと感じた。
⑦まともじゃない人がまともじゃないことをした。しかし、まともなことだと感じた。
⑧まともじゃない人がまともじゃないことをした。そして、まともじゃないと感じた。

①自分のことを好きな人が自分に酔っていた。そして、ナルシストだと感じた。
②自分のことを好きな人が自分に酔っていた。しかし、ナルシストではないと感じた。
③自分のことを好きな人が自分に酔ってはいなかった。しかし、ナルシストだと感じた。
④自分のことを好きな人が自分に酔ってはいなった。そして、ナルシストではないと感じた。
⑤自分のことを嫌いな人が自分に酔っていた。そして、ナルシストだと感じた。
⑥自分のことを嫌いな人が自分に酔っていた。しかし、ナルシストではないと感じた。
⑦自分のことを嫌いな人が自分に酔ってはいなかった。しかし、ナルシストだと感じた。
⑧自分のことを嫌いな人が自分に酔ってはいなかった。そして、ナルシストではないと感じた。

①幸せな人に幸せなことがあった。そして、幸せだと感じた。
②幸せな人に幸せなことがあった。しかし、不幸だと感じた。
③幸せな人に不幸なことがあった。しかし、幸せだと感じた。
④幸せな人に不幸なことがあった。そして、不幸だと感じた。
⑤不幸な人に幸せなことがあった。そして、幸せだと感じた。
⑥不幸な人に幸せなことがあった。しかし、不幸だと感じた。
⑦不幸な人に不幸なことがあった。しかし、幸せだと感じた。
⑧不幸な人に不幸なことがあった。そして、不幸だと感じた。

これは、この記事は、わたしの希望的な観測なのですが、物事は受け取り方次第、とは、自己啓発界隈では、よく言われることです。

しかし、そのことを具体的な言葉で話す人は、あまり見たことがありません。

なので、わたしが具体的な体験に落とし込みました。

しかし、ここで注意してほしいのは、わたしは、一般的な自己啓発の界隈の考え方とは異なり、何でもかんでもポジティブに受け取ればいい、などとは到底考えてはおりません。

ぼちぼちポジティブに受け取りたいときもあれば、まぁ、無難にネガティブな受け取り方をしていた方が心象のよい場面などもあろう、と考えております。

なんなら、あんまりポジティブに受け取ることで、ネガティブな要素を見つめ切れずに、その後の進退に差し障りが出るケースなどもあります。

具体的な事例を出すと、才能がないのに、自分は才能がある、とか、あんまり思い込みすぎると、もう努力のかけらも感じられない日々となるかもしれませんし、実際に、もはや、何の成長もないかもしれません。

或いは、溢れるばかりの才能があるのにも関わらず、自分には才能がない、と思い込むなら、他を寄せつけない、追随を許さない、努力の鬼になれるかもしれません。

そうしたように、物事の受け取り方というのは、適宜バランスを取りたいし、常に自覚的でありたい、とそうわたしは感じます。

無自覚なポジティブや、無自覚なネガティブは、あまり論理的には、素晴らしい結果には、繋がりにくいかな、と。

(追記)

①自覚的なポジティブが良い結果になった。
②自覚的なポジティブが悪い結果になった。
③無自覚なポジティブが良い結果になった。
④無自覚なポジティブが悪い結果になった。
⑤自覚的なネガティブが良い結果になった。
⑥自覚的なネガティブが悪い結果になった。
⑦無自覚なネガティブが良い結果になった。
⑧無自覚なネガティブが悪い結果になった。

いずれにしても、というところでは、あるのですが、素晴らしい結果なんて、そのこと自体に、大した価値も意味もないのかもわかりません。

今回の記事にある、その選択肢は、それひとつを取るなら、何が正解で、何が不正解、ということは、ないのでは、とわたしは考えております。

ただ、それぞれの状況や環境の中で、必然として選んでいるものかもしれないし、或いは、結果的にその選択をするしかない、という場面もあろうかと思います。

その、受け取り方の自由を、わたしは希望的な観測として、そうした選択の自由を尊重したい、その選択の自由を奪いたくない、とわたしは希望的に、考えております。

でも、この記事、意外と面白いでしょう。

この人、なんか思ったより色んなこと考えてるんだな、とか、思っていたより面白い人なんだな、とか、そんな希望的な観測を見れると、嬉しいな、と思います。

それでは、また明くる日に。

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[番外編]

最後に、後から思いついた番外編をお送りします。

存外、こちらの項目が最も実用的かもわかりません。

①実際に被害を受けて、実被害と認識した。そして、自分を被害者だと感じた。
②実際に被害を受けて、実被害と認識した。しかし、自分を被害者だとは感じなかった。
③実際に被害を受けたけど、被害妄想と認識した。しかし、自分を被害者だと感じた。
④実際に被害を受けたけど、被害妄想と認識した。そして、自分を被害者だとは感じなかった。
⑤実際には被害を受けていないけど、実被害と認識した。そして、自分を被害者だと感じた。
⑥実際には被害を受けていないけど、実被害と認識した。しかし、自分を被害者だとは感じなかった。
⑦実際には被害を受けていないから、被害妄想と認識した。しかし、自分を被害者だと感じた。
⑧実際には被害を受けていないから、被害妄想と認識した。そして、自分を被害者だとは感じなかった。

こちらは、特定の心の悩みや心の病みを抱える方々にとって、ひとつの一助となる考え方ではなかろうかな、と個人的には、一筋の希望の光と捉えております。

「物事は、考え方次第だから、頑張ろうよ」とか、「自分と向き合う」とか、「現実と向き合う」とか、そういう綺麗事よりも、ほんの少しだけドライで、論理的で、即物的な、わたしらしい考え方なのかな、と感じているところです。

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