女子サッカー [1] der Frauenfußball(デア フrラオエン・フースバル) [1]

  「女子」に当たる言葉が、die Frauという女性名詞である。もちろん、「女、女性」という意味でも使える言葉で、その複数形が、die Frauenとなる。発音では、auという複母音は、「アウ」よりも「アオ」と発音した方が、より原語に近くなる。それで、上の表記のように書いてある。

 「貴婦人」、あるいは、「奥方」的な感じを持たせたい時には、die Frauに替えて、die Dameディー ダーメという言葉が使える。スピーチの最初に、「皆様」という感じで言う挨拶言葉に、「Damen und Herrenダーメン ウント ヘrレン」というものがあるが、直訳的には、「淑女、そして、紳士の方々」ということになる。

 この言葉DameとHerrとは、スポーツ用語にも登場し、たとえば、女子ダブルスなどでは、Damendoppelダーメン・ドッペルと、Frauではなくて、Dameの言葉が使われる。女子サッカーの初期の頃には、ウィキペディアによると、Damenfußballという言葉が使われたと言う。いわば、「淑女蹴球」である。因みに、「サッカー」に当たる言葉Fußballフースバルであるが、直訳すれば、「足球」である。ß字は、エスツェットと呼ばれ、その前の母音は、必ず長母音となり、s字と異なり、ß字は、いつも、「サ行」で発音する無声音となる。

 それでは、まずは、「淑女蹴球」について話そう。

 ドイツでは、20世紀への替わり目ぐらいから、ある種の「蹴球」があったと言う。日本の宮廷には、貴族の男性が遊ぶ「蹴鞠」というものがあるが、それと同様に、良家の子女が円を組んで、蹴鞠とはルールが異なるが、ボールを蹴っていたと言う。しかし、女性がそのようなスポーツをすること自体が、「公衆の良俗」に反するとして、その「不道徳性」が声高に叫ばれたと言う。

 1920年代には、他のヨーロッパ諸国での「淑女蹴球」が最初の人気を得たのに対して、ドイツでは、フランスやベルギーの新聞報道によると、1926年にDFBデー・エフ・ベー、つまり、ドイツサッカー連盟が女子サッカーを事実上禁止にしたと言う。それまでは、ドイツの女性たちもFCエフ・ツェー(サッカークラブ)を設立させていたのである。女子サッカーの普及による、女性の「男性化」と、母親として「義務」の受け入れが遅くなることへの、DFB側の「危惧」がそこにはあったのである。

 ナチス時代は、言わずもがな、戦後になっても、この傾向は続く。1954年にサッカーのワールドカップ(WMヴェー・エム)で、男子チームが初めて優勝すると、女子サッカークラブの設立の機運が高まるのであるが、翌年の6月にDFBは、「全会一致で」、「淑女蹴球」のためのクラブの設立を禁止する決議をする。なぜなら、サッカーをやることにより、女性は、精神的にも肉体的にも「ダメージ」を受けるからであると言う。それだけではない。肉体を観衆の視線に晒すことは、淑女としての「礼儀作法」と「行儀の良さ」に反するものであると言うのである。

 このような状況でありながら、とりわけ北ドイツのルール地方(ルールは、Ruhrと書き、発音はrルーア)では、1954年以降は、女子サッカー・チームがあちこちで生まれ、お互いに対外試合をやり合う。それを受けて、2年後には、「西部ドイツ淑女蹴球連盟」が結成される。同年、ルール地方の中心地エッセンで、ドイツとオランダとの間の友好試合も行なわれ、ドイツが2対1で勝つが、これ以降、1965年までに、約150もの、非公式の各国との対外友好試合が開催される。

 こうした女子サッカー・チームの、地道な活動が実を結び、1970年10月31日にDFBは、連盟の会議を行ない、1955年に採択されていた「淑女蹴球」禁止の決議を無効にする。しかし、「か弱い女性」の健康を思うDFBは、以下のような条件を付けたと言う:

 1.冬期間の試合は行なわれない。

 2.スパイクシューズは使用しない。

 3.ボールは、より小型で、軽いものとする。

 4.試合時間は70分とする。

 このような制限を受けながらも、女性がサッカー・チームを作り、公けに試合が行なえるようになったことは、女子サッカーの歴史を大きく前へ一歩進めた。早速71年には、ベルリンに地方リーグが形成される。その3年後には、女子サッカーの、ドイツ連邦共和国レベルのMeisterschaftマイスターシャフト(大会)が開催され、初めての「ナショナル・カップ」を、フランクフルトから西方に行ったrラインラント=pファルツ州にある小さな町Wörrstadtヴォェアシュタットの女子サッカー・チームが勝ち取っている。DFBに登録した女性メンバーの数も、70年に5万人であったものが、75年には、その約四倍の、21万人に増加した。70年代後半は、ドイツ女子サッカーの組織的整備の時期でもあり、DFB内に担当部署が設けられ、女子サッカーのための、各州での優勝杯、連邦レベルでのDFB優勝杯が「公民権」を得ていく。女子サッカーの人気を高めるために、DFB優勝杯に関しては、女子サッカーのチャンピオンシップ決定戦を、男子チームのチャンピオンシップ決定戦の同日の「前座」として、同じスタジアムで行なっている。

 1982年、公式の女子ナショナルチームが、最初の公式の対外友好試合を、対スイス戦で戦う。対オランダ戦の非公式の対外友好試合が行なわれてから、約四半世紀後のことである。この試合で、当時18歳であったSilvia Neidズィルヴィア・ナイトが、5点中の2得点を入れる。彼女が、その約20年後には、女性として二代目の、ナショナルチームの監督になることになる。

 こうして発展を続けてきた女子サッカーではあったが、州内だけでのリーグではトップ・チームが出来上がり、そこがそのリーグの「覇者」に連続でなり続けるという傾向が出てくる。確かに、連邦レベルのDFB杯大会はあるにはしても、これは、トップ・チーム同士の年一回のみの対戦であり、これではドイツ国内での女子サッカーのレベルが向上しないという状況に対応せざるを得なくなる。まず、州リーグの上の地域リーグを1985年以降設けることとし、さらに、DFBも、86年に、数年以内に女子サッカーの「ブンデスリーガ」を作り上げることを決定する。

 EMエー・エム(ヨーロッパ・カップ大会)では、それまで予選も勝ち残れなかった西ドイツは、ようやく88年に予選を勝ち抜く。そして、翌年の勝ち抜き戦の大会がドイツで行なわれることも決められたのであった。

 この大会で、西ドイツの女子チームは、準決勝で、PK戦で辛うじてイタリアに勝ち抜いた後、優勝戦では、優勝候補と見なされていたノールウェーを4対1で降して、快勝し、ヨーロッパ・チャンピオンとして、初めての凱歌を揚げたのであった。

 それでは、その後のドイツ・女子サッカーの「成功談」は、次回に続けようと思う。

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