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「貴族の物語」としての乃木坂5期生ーーミッドサマーから貴族へ、あるいは徳の世代継承

人々が状況に対応していく中で、その対応のいくつかが後に範例的であったと見なされるようになり、それらが高められて礼になる。次世代は礼を反復し、自分たちを訓練し、感情面での対応の仕方を洗練していく。
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礼は感情に由来する。それは範例的だと見なされた対応であり、次世代を訓練してその感情を様式化するのを助けるとも考えられている。
マイケル・ピュエット「不連続の神義論ーー古代中国においてエネルギーと感情を飼いならす」

この文章を公開するのは、齋藤飛鳥のグループからの卒業が発表された翌々日である。否応なく懐古と総括に語りが集中する数ヶ月が訪れるであろういまこそ、未来の話をしたい。そう思って、このタイミングであえて乃木坂46の5期生についての文章を世に出す。5期生たちにとって、おそらく今回の出来事はエピソード0に過ぎないからだ。

2022年以降の乃木坂46をどう観ていくべきか。結論から先に述べると、私が主張したいのは「貴族の物語」として乃木坂46を解釈するとよいのではないか、ということである。「貴族」というタームで捉えることで、乃木坂46のコミュニタリアニズムの性格を確認し、過去と未来の時間軸に開かれた運動体として見ることを可能にするのではないか、そう思っている。

TIFで露呈した乃木坂5期生の異様さ

最初に「貴族」というキーワードが頭に浮かんだのは、8月上旬に行われていたTIF(TOKYO IDOL FESTIVAL)に乃木坂5期生が出演した時に感じた、ある種の異物感である。TIFでほかのアイドルグループと並んだときに浮き彫りになったように彼女たちは、アイドル戦国時代のときのような新自由主義的なアイドルしぐさをしない。5期生たちは自身の所属しているグループに絶対的な誇りをもっており、その余裕と自信が彼女たちをこのステージにおいて異様な存在に映らせた。

そう、彼女たちは「貴族」であるがゆえに、いわゆる全力ファンサービス(労働)をしない。比喩的に述べれば、玉石混交のアイドルたちが日々をしのぐパンを求めて労働しているなか、彼女たちは美味しいケーキをいかに食べるかに集中している。國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』の整理でいえば、彼女たちは暇を用いて、浪費をできている(「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」)。

「AKB48の公式ライバル」として立ち上げられた乃木坂46は、2017~18年前後を機に、その目標を半ば達成し、日本のアイドルグループの頂点に立ったといえるだろう。荒野に投げ出された彼女たちは、自分たちの「城」をつくることに成功した。その城が完成した後に、この村に新しい住人がはじめて入ってきたのは2019年に加入した4期生だ。自分達でその地位を勝ち取った第一世代(1・2・3期生)と、その環境を所与のものとして受け取る第二世代(4・5期生)は違う。この第二世代こそが貴族だ。

 とりわけ2022年に加入した5期生は、英才教育を受けている生粋の貴族といえるだろう。国内のグループアイドルオーディション史上最多である応募人数8万7852人、倍率約8000倍のなかから選ばれた11人。デビューして2ヶ月で日産スタジアムの舞台に立ち、直後から毎週民放の30分テレビ番組「新・乃木坂スター誕生!」で歌唱を披露する機会を与えられている。この英才教育に加え、他期生に比べても抜きん出ている、もともとの明らかな文化資本の高さ(ロシアのバレエ団への入団がきまっていたバレエ選手、元フィギュアスケート選手、美大を目指す画力、全体的な歌唱力の高さ…etc)は、お披露目当初から話題をよんでいた。

コミュニタリアニズムとしての乃木坂46 徳の世代継承

なぜ筆者が第二世代のことを、エリートなどではなく貴族というタームをつかって説明したいか。それは共同体の歴史を内包できるからである。共同体によって醸成された「徳」を身につけた第二世代を、「貴族」と呼びたい。

乃木坂46はファンの間では、異様な愛着と優しさ・慈しみを持ちあわせたグループであることで知られている。そのことは、日常的にメンバーからも発信されているし、ドキュメンタリー映画第二作『いつのまにか、ここにいる』(2019年)は、まさにこの「善き共同体」としての乃木坂46を描くことに焦点があてられていた(グループのことを何も知らない岩下監督自らが「何でこんなに仲が良いのだろう?」という問いから制作したことを話している)。乃木坂46のファンは、この乃木坂ヒューマニズムとも言うべき贈与と徳の連鎖の虜になっている。

この徳は、確実に5期生にも伝播しているようにみえる。乃木坂46は、筆者の知る限り、唯一徳の世代継承に成功しているアイドルグループである。

今年で結成10年を超えた乃木坂46は1期生と2期生がもう片手で数えられるほどしかいなくなり、2016年以降に加入した3・4・5期生がほとんどを占めている。かつてエースと呼ばれたメンバーがこの数年間で続々と卒業しているなか、毎年のように衰退を危惧する声が内外から囁かれている。しかし、大方の予想に反して、乃木坂46が落ち目を迎えてる様子はいまのところない。むしろ、テレビドラマの主演やレギュラーを務める現役メンバーも増えつづけており、舞台・モデル・ラジオ、各方面での活躍は加速しているともいえる。

乃木坂46のこの持続的な成功に、私は政治思想のいうところの「コミュニタリアニズム(共同体主義)」の具体化をみる。共同体の歴史のなかで培われた共通善と徳が、このグループの持続性を支えている。(この記事の趣旨から逸れるので詳しく説明しないが、筆者はAKB48を市場原理(総選挙)をつきつめたリバタリアニズム、欅坂46はその楽曲とパフォーマンスのコンセプト(理念)を第一に掲げたリベラリズムを体現していたと整理していて、その対比から乃木坂46=コミュニタリアニズムという発想は生まれている。)

「創られた伝統」と乃木坂らしさ

戦争や厄災が起きる。その過去を直に体験していない世代が現れたときに、語り部が生まれ、それを伝承する出版物が流通し、博物館が建設される。あるいは、過去の歴史の蓄積のなかから、ある特定の要素が「伝統」として抽出されそれが「正史」となる。伝統とは決して不変なものではなく、近代化のプロセスに応じて都合よく「再発明」される。現在の目的のために「伝統」は都合よく捏造され、一部だけ切り取られて誇張されることがある。大きくなりすぎた領土と住民を統合するために。これらを、歴史学者のエリック・ホブズボウムらは「創られた伝統」といい、ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」といって議論した。

第一世代が続々とグループを去っていった乃木坂46のこの数年は、まさに「創られた伝統」と「想像の共同体」がリアルタイムで構築されている様をみているようだった。

たとえば、2021年の「9th YEAR BIRTHDAY LIVE」の4期生ライブで披露された、はっきり言って無駄としか思えない「下駄ップ」や「自転車漕ぎ」の追体験。まるで「先輩もやってたんだから」という理由だけで部活でやらされるウサギ飛び、すし職人が「飯炊き3年握り8年」といわれ延々と清掃や下準備をさせられるような滑稽さを感じざるをえなかった。2022年の「10th YEAR BIRTHDAY LIVE」においては、「DAY1:2011-2016」と「DAY2:2017-2022」と両日にサブタイトルがつけられ、卒業メンバーのサプライズ登場とあわせてグループの歴史が振り返られた。まるで博物館の標本展示のように。

少々皮肉が漏れてしまったが、上記のようなことが行えているのは、乃木坂46のメンバー、スタッフ、ファンダムが乃木坂46の歴史に誇りをもち、共通善を見出せているからこそ実現しているものである。これに卒業生の多方面での活躍が寄与していることも言うまでもない。筆者が乃木坂46をコミュニタリアニズムという言葉で捉えたい、その証左である。そう、みんなが大好きな言葉、「乃木坂らしさ」がこのグループにはあるのである。

ミッドサマー的な閉鎖性

生田絵梨花の卒業曲である「最後のTight Hug」のMVの演出には、映画『ミッドサマー』が参照されている。この映画は、スウェーデンにあるホルガ村(カルト的コミューン)の夏至祭を訪れた大学生グループが、その村の常軌を逸した人身御供を求める儀式に巻き込まれる……というあらすじのホラー映画(?)である。監督が2021年末の乃木坂46への当て書きとしてこの作品を参照したのは、極めて適切であると思う。『いつのまにか、ここにいる』のなかでも捉えられた「善き共同体」は、強い多幸感と共同性をもち、だからこそ強い排他性を伴う。そのことを見抜いていたのだろう。

たとえばこの乃木坂46の閉鎖性は、2021年末の恋愛スキャンダルから星野みなみを守った。日本のアイドルグループに根強く残る「恋愛禁止」の不文律は、乃木坂46においても例外ではない。いわゆる疑似恋愛的なビジネス(etc.某恋愛アプリゲームや番組での企画、握手会でのコミュニケーション…)を展開していることも無視できることではない。過去にこの手の週刊誌報道に晒されたAKBや坂道シリーズのグループのメンバーは、強いペナルティを課せられるか、半ばフェードアウトするかのように脱退するという選択をとるしかなかった。しかし、彼女はいわゆる明確なペナルティなどを課せられることなく、「星野みなみ卒業セレモニー」を実現してメンバーとファンに祝福されるという形で卒業した。この意思決定は、明らかに現在の日本のアイドルグループの市場原理に反しており、普段のファンダムの共同幻想(「乃木坂らしさ」)にも反している。おそらく、星野みなみは「共同体にとって大切な人だから」という理由だけで守られた。ここに、筆者は特別のミッドサマー性(宗教的な閉鎖性)をみる。

また、この閉鎖性は、2022年に新センターに抜擢された中西アルノをキャンセルする力になった。記憶に新しいように、29thシングル『Actually...』のセンターに抜擢された5期生である中西アルノが、それと同時期にネット上に流布されたスキャンダルな情報によって、活動休止を余儀無くされた。『Actually...』がファンダムから強い拒否反応をうけたのは、その新センターの情報だけでなく、そもそもの楽曲性・パフォーマンスと発表の経緯などにも大きく寄るものである。彼女は「乃木坂らしさ」にジャッジされ、キャンセルされた。ホルガ村で催されるキャンプファイヤーの儀式のように・・・。

筆者がミッドサマー性と呼ぶこの閉鎖性は、乃木坂46が歴史と誇り持った共同体として持続していればいるほど、今後も形を変えて両義的な形で現れるだろう。

貴族の業とその未来

2011年に誕生した乃木坂46は、日本のアイドル界の頂点を極め、自分たちの城を打ち立てた。そして自分達で作り上げた領地に、新しい世代を招き入れた。それが貴族だ。しかし歴史が証明しているように、それは明るい未来が約束されていることを意味しない。貴族には貴族の宿命が、受難が待っている。貴族の生活は厳しい。期待を背負わされ、多くの習い事に習熟することを求められ、コルセットの着用を義務付けられる。まるでヴィクトリア朝文化のように。彼女たちにはノブレス・オブリージュが要求される。

貴族には内部政治と派閥争いがつきものだ。大衆には羨望の眼差しと同時に疎まれ、革命が起こればギロチンにかけられるーーー。

ファンならば周知の事実であるが、乃木坂5期生の活躍は目覚ましい。毎週放送される「新・乃木坂スター誕生!」は常に話題を呼んでいるし、ほかメディア出演も多く、ミーグリの数字も他期生に全く劣らない。30thのシングルに収録されたMVのなかで、一番再生数が多い(22年11月時点)のは表題曲も抜いて5期生楽曲である。

それは喜ばしいことであると同時に、グループとしての痛みも伴うものだろう(世代交代)。その痛みは、すでに4期生にも新しくみえはじめている。席を空けたとき(活動休止)にもとの席に戻れる保証はないし、ミーグリの実売数などにより、如実に格差は可視化されてしまう。

それでも、グループとしての共通善を維持できれば、この城と理想郷を長く維持できるのではないかという希望を持ちたい。22年2月に「乃木坂らしさ」によって糾弾された中西アルノと岡本姫奈にしても、それから半年が経ったいま、乃木坂5期生による共同体の力(先輩から継承された徳)を持って、二人を包摂できているようにみえる。やはり私が強調しておきたいのは、乃木坂46にみられる「徳の世代継承」というべきものだ。

齋藤飛鳥の卒業に即していえば、この卒業を機に、クリエイティブも含めて彼女がどのようなレガシーを乃木坂46に置き土産として残していくかに注視していきたい。それがまた新しい「乃木坂らしさ」を構築するはずだからである。今後の過程をどう我々が見守るべきなのか、その一端をこの文章で示せていたら良いとおもう。

姉妹グループである日向坂46や櫻坂46も、それぞれ4期生と3期生の受け入れをはじめている。まさにこれから第一世代の当事者がいなくなり、「らしさ」の継承が焦点化されることが予想される。この文章が、よき消費者として、ファンがこれらグループの動向を冷静にみるための助けになれば幸いである。

今の齋藤飛鳥さんが今まで歩いてきた道があるから

私も、…私は私なりにだと思いますが、沢山悩んで仲間を頼って色んな話をして

いつか辿り着いた場所で今までの自分を誇れる自分でありたい
2022.11.4 5期生リレー公式ブログ 『#いい推しの日』

22.11.06



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