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乃木坂46 『Actually...』 "乃木坂らしさ"による分断

はじめに

本稿は、乃木坂46 29thシングル『Actually...』で加入まもなくセンターに抜擢された中西アルノの加入以前の行動、それにまつわる直近のSNS上での一連の騒動に対して直接的に言及することを不必要と判断した上で進む。先日公式ホームページ上で公開された乃木坂46合同会社並びに中西アルノ本人の声明文に、現時点での最大限の意思表明が記されており、本件に対してこれ以上ソーシャル上で言及することは、表層的な情報をいわば"騒動的に"再拡散・再生産することに繋がりかねない。そのことを第一に懸念した上で、今作『Actually...』の楽曲性・パフォーマンスに着目して、初披露直後「なぜファンの間でこれほど否定的な意見が多く噴出したのか」考えていく。


46時間TVの多幸感を引き裂く "異物感"としてのサウンドスケープ

『Actually...』は乃木坂46時間TVを締め括るスペシャルライブで初披露される。その直前にはストンプ&クラップを繰り返し「みんなで歌う喜び」を『シンクロニシティ』以降のグループカラーである"共鳴性"と絡めて訴えかける『Sing Out!』が披露されることで、乃木坂46というグループが10年間の歩みで結実させた多幸感と、今まさに46時間を駆け抜けようとしている達成感が、極めてハッピーな形で実演された。その後に流された46時間TVの振り返りVTRはまるで文化祭の終わりを惜しむような一抹の寂しさを抱えており、彼女たちが全力で取り組む姿が青春性として肯定的に回収されていくようであった。あのときファンの誰もが、このままずっとこんな風にこのグループが続いていけばいいなと思ったはずである。

ところが突如、VTRは怪しげに展開する。仰々しいSE、さらには<かつてない歌声><発見された新しい可能性><10年目の挑戦>という明らかに「革新」を意図した文字列とともに、29thシングルのセンターが5期生・中西アルノであることが明かされ、今シングルが今までの乃木坂46のクリエイティブとは一線を画したものであることが明示される。つまり、つい先程まで目にしていたあの多幸感が、これからは(少なくとも29thでは)必ずしも保証されないことを突きつけられた第一の瞬間である。

そんな驚きも束の間、『Actually...』のイントロが鳴り出した瞬間に、先程のVTRでの仰々しいほどの告示が嘘ではなかったことに気づく。乃木坂46の楽曲においてこれまでもシンセをベースとした曲は数多く量産されてきたものの、ここまでトラックの音数や使用されている音の種類を精査できているものは一つとして無かったと思う。Bメロが存在しない曲構成(Aメロ→サビ→Aメロ→サビ→Cメロ→大サビ)も、Aメロ→Bメロを歌詞に沿って丁寧に展開していくことによって分かりやすく物語的な訴求を生み出すことを得意とする乃木坂46のクリシェに反する。歌詞についても極めて文章量が少ない。例えば『シンクロニシティ』の「胸の痛みも76億分の一になった気がする」などに見られる、メロディーに対して必要以上に言葉数が多いことで生まれる"詰め込み感"(もちろんこれをフックとして生かすこともできなくはないが、多人数の、しかも技術的に未成熟な歌唱において実践することは異物感を生み出すことだけに終わってしまうことが多い)が、今作では極力排除されていることで、中西アルノの声質にフォーカスを当てるための必要最低限の「歌いやすさ」が生み出されている。(とはいえ要所要所、相変わらず譜割りのチグハグ感は否めない)

パフォーマンスについても異質であった。中西アルノを中心とした陣形が常にキープされている。特にサビ以外の部分では、彼女が他メンバーの間を踊るようにすり抜けていく様子にフォーカスが当てられる。この構図だけを切り取った時に欅坂46のダンス並びに平手友梨奈の"独立性"を想起することは容易であるが、そもそも加入したばかりの5期生がいきなりセンターに抜擢されることによって生じる異物感を考慮したときに、この選抜自体が『バレッタ』ぶりの極めて異質なものであり、つまりはパフォーマンスどうこう以前に生じた異物感によってその後のクリエイティブ全てが異質なものと判断されてしまう構図をはじめから作り出していたことが分かる。これは制作サイドが意図して計画したものであり、そのサプライズ性に巻き込まれるメンバーのプレッシャーを考えると健全なものとは言い難い。だが、乃木坂46のみならず他の坂道シリーズ、ひいては48グループまで秋元康のプロデュースするアイドルグループにおいて、これまでも打ち出されてきたコンテンツの一つであり、我々もこれを楽しんできた過去がある。

このパフォーマンスを「全体の群舞」として享受するかどうかで、ファンの反応は大きく分かれている。他メンバーが前に出る時間が少なく、中西アルノが中心で踊っているだけと捉えてしまえばそこまでだが、筆者が指摘したいのは、彼女以外の他メンバーも、群舞を構成する上で多大な貢献を果たしていることである。かつてないほどの繊細な技量が試されていることを感じた。彼女たちのこれまでのパフォーマンスがそうでなかったと言うつもりは微塵もないが、まだグループ・パフォーマンスに慣れていない中西アルノを補完するという点においても、既存のメンバーに対しては、今まで以上に献身的な手振り・足ぶりが求められる。ただカメラに抜かれ笑顔で振る舞う時よりも、さらに難度の高い訴求を見せなければいけない。自分が目立つことよりも、さらに難しいことを遂行することによって"自分が立っている"ことを証明し、いかにセンターだけが悪目立ちしない構図=「全体の群舞」を作り出せるかどうかを求められている。つまり<10年目の挑戦>が、中西アルノ以外の選抜メンバーにも降りかかっており、どのメンバーもそこに一切の惰性は許されない。少なくとも齋藤飛鳥と山下美月がそれぞれ、中西アルノと接合する場面においては、ふたりから並々ならぬエネルギーを感じ取ることができた。このふたりの貢献に焦点が当たることとなったのが、それから一週間ばかり後の「シブヤノオト」のパフォーマンスである。


パフォーマンスの変更 単なるWセンターではない

中西アルノの活動自粛が発表された2日後、乃木坂46はセンター不在の『Actually...』を引っ提げ、NHKの音楽番組「シブヤノオト」に生出演することとなる。振付を担当したSeishiro氏のインスタグラム(ストーリー機能による投稿のため24時間で非公開に)によると、急遽新たなパフォーマンスを出演当日に振り入れしたとのこと。そのパフォーマンスは、サビ以外の部分が大きく変更されており、中西アルノの担当する振付を山下美月と齋藤飛鳥が二分するような構図が取られていたほかにも、まるで「他のメンバーが全然映らない」という批判を汲み取るかのように、2列目メンバーが前面に出るようになっている(とはいえ3列目メンバーの露出に関しては大きく変わっていないように感じた)。ただ、Cメロの「誰でもなく自分 (Wow)」における、齋藤飛鳥が壁の向こう側から山下美月を引きずりあげるような振付を見た時に、少なからずオリジナルのパフォーマンスから継承される意匠を感じ取ることができた。あのとき、中西アルノに対して山下美月や齋藤飛鳥が向けていた"救い"や"計らい"のようなものを、変更後のパフォーマンスでは山下美月に対して向ける齋藤飛鳥の姿があった。その直後の大サビ入りの齋藤飛鳥の表情に全てが説明されていた。とはいえ、46時間TV並びにテレ東音楽祭以降にファンダムから巻き上がった拒否感に対して、一旦寄り添うように変更されたパフォーマンスから<10年目の挑戦>といった要素が薄れてしまったことは否定するまでもなく、中西アルノの歌声は他者でもって代替できるものではないということを痛感させられた。このシブヤノオトでのパフォーマンス(今後の歌番組でもこの形で披露されるはず)が一旦の解決策でしかなく、オリジナルの振付ほどの革新性を外部に訴求することは極めて難しい。ストリーミングでのバズを期待する意見も見かけるが、TikTokに適応する楽曲とも考えづらいし、そもそも乃木坂46のファンダムがストリーミングを回すことに対してあまり意識を置いていないことも含め、特に期待はできない。<10年目の挑戦>は予期せぬ事態と、楽曲・パフォーマンスに対するファンダムからの強い拒否感によって、舵を切ることを許されない結果に終わった。


"乃木坂らしさ"による拒否感、そもそも"乃木坂らしさ"とは?

今回の『Actually...』に対して、ファンの多くから"乃木坂らしさ"を盾にした批判が上がった。"乃木坂らしさ"には「温かさ」や「幸福感」や「笑顔」があると主張し、今楽曲にはその要素が微塵も見られないことを嘆いていた。そのように”乃木坂らしさ”を解釈すること自体、完全に否定するつもりはないが、それはこれまでのクリエイティブの傾向と、結果として成功している現在の姿を汲み取ったものに過ぎず、乃木坂というグループが新たなタームに突入している場面で向ける物差しとしては(つまり、その"乃木坂らしさ"が10年目以降も必要不可欠なのかどうかも含め)あまり適切ではないように感じる。

これまで筆者は"乃木坂らしさ"について、真っ向から直接向き合うことを避けてきたが(それは多くのファンも同じだと思う)、今回の件を経て一つの仮説を立てることにした。それは「"乃木坂らしさ"とは、ファンと乃木坂46との距離感の具現化」なのでは?いうことである。つまりは、"乃木坂らしさ"という言葉が、その地点地点での乃木坂46のクリエイティブを確認するために「わたしの好きな乃木坂46像」として、しかもノスタルジーに流用される現状を見るに、辞書に記された言葉のように永続的に設定されるようなものではなく、ファンにとって安心感を与えるワードとして機能しているように感じる。ならば、その物差しはファンの間で各々持つことは問題ないにしても、新たな挑戦ないし革新に拒否感を示す際に使うことが果たして正しいのか。『Actually...』のように、これまでのグループのクリエイティブからは想像されなかったものが実演された時に、グループに対してファンが距離を感じてしまうのは当然である。この状況に対して安易に"乃木坂らしさ"という言葉を当てはめてしまうことは、グループのクリエイティブを制限する危険があり、そのような意見がファンダムに蔓延すれば、残された"生産可能な可能性"を狭めてしまう結果に繋がりかねない。それがこの先、グループが生き残っていく上で幸福かどうかは断言するまでもない。

最後に

『Actually...』は当初予定していたものとは形を変えて披露することを余儀なくされた。この曲が初披露された際にファンダムから巻き起こっていた批判の多くが、その楽曲性への戸惑いと、単独センター抜擢による平手友梨奈再生産の危惧であった。もちろん、中西アルノにかけられた負荷について憂慮しないわけがないが、あの時、2018年〜2019年にかけて平手友梨奈が抱えていたプレッシャーと、それを熱狂的に受け入れていたファンの漫然性を思い出すと、あれに匹敵する過酷な光景は簡単に生み出されるとは思えないし、簡単に生み出してはいけないからこそ、今作のオリジナルパフォーマンスではフロントメンバーによる手厚い保護が為されていたし、とにかく中西アルノをサポートしようという他メンバーの意志を感じた。たったひとりで「角を曲がる」を踊り去っていった平手友梨奈とは訳が違う。我々が今できることは、目の前で繰り広げられる光景に潜む一片の輝きを掬い上げる真摯な視線を向けることである。なにも全肯定する必要はないが、少なくとも揚げ足を取ったところで何も前進することがないのはここ数週間のソーシャルの動きを見ていれば歴然である。ここから乃木坂46の10年目が始める。限られた時間の中でメンバーが見せる一挙手一投足に対して、ファンは何をすべきか。誠実に考えていくことが求められる。

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