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いわゆる「縦割り行政」について考える。

30年以上中央官庁に勤めた者として、この問題についてコメントしておかなければならないと思います。いわゆる「縦割り行政」についてです。

ウィキペディアで検索すると、縦割り行政とは「行政機関における不合理な役割分担や各省庁の過剰な管轄意識によって行政サービスが非効率に陥る問題」となっています。これが、縦割り行政についての、一般的なイメージでしょう。

より中立的には、中央政府の各省庁や地方自治体がそれぞれの役割を課せられて併存している状況を端的に「縦割り行政」と言うこともできますし、そこから生じる弊害や非効率を指して「縦割り行政」と呼ぶこともできるでしょう。

なぜ「縦割り行政」の弊害が生じるのか

各行政組織が併存している状況は事実としてあるわけですし、そこから弊害や非効率が生じていることも事実だと思います。もともと役人だった人間として、そのことを弁護するつもりも批判するつもりもありません。要は、そのことを認識して常に状況を改善すべく努力しなければならないということだと思います。その努力は、官僚自身にまず求められるわけですが、(恐縮ながら)それと同時に政治主導の改革努力やそれを民主的プロセスによってコントロールする国民の意識にも頼らなければならないのが実情です。

そもそも、なぜ「縦割り行政」の弊害というのは生じるのでしょうか。

根本的には、それぞれの組織が役割を分担していること、そのものによって生じているのだと思います。中央と地方を含めて、行政が担う業務は膨大であり、いくつもの組織に分けて、分担して業務を行わなければなりません。そこは致し方ないことだと思います。

役割を分担すれば、当然ながら、それぞれの組織が目指すべき理念や解決すべき課題は異なってきます。厚生労働省が良好な保健・衛生状態や労働環境の維持・実現を目指す一方で、環境省は自然環境の改善・維持を目指します。通商産業省が国内産業の育成・保護や通商の発展を目指すのに対し、国土交通省は国内の交通、建築、国土のバランスのとれた発展を目指します。外務省は対外関係の増進や国際問題の解決に努め、財務省は国の財政の均衡をつかさどります。

国益という漠として大きな視点を持ちつつも、それぞれの組織は違う方向を見て物事を考え、業務に取り組むわけです。それ自体が悪いこととは言えないと思います。それぞれ別の役割を担っているのですから。

しかしながら、それぞれの組織が違う目標を目指していると、一方の目標にかなっても、他方の目標を害するということが起きる場合があります。その場合、どちらの目標を優先すべきかということを、それらの組織自体では判断できません。価値を図る尺度を共有していないからです。

そのような時に、政治的なリーダーシップによって方針を示してもらえれば、合理的な方向に物事を進めることができるのだと思います。そうでないと、不合理な状況であっても、どうしても「現状維持」という結論になってしまいます。つまり、何かを変えるという意思決定を行えない以上、これまでのままということになるわけです。

「訪日外国人を増やせ」

コロナ禍になる前、菅官房長官(当時、以下同)の強力なイニシアティブによって、訪日外国人を大幅に増加させることに成功しました。これは国土交通省(観光庁)主導で訪日外国人のための環境整備を行ったこともさることながら、外務省所管の査証(VISA)の発給について、その要件を緩和したことが大きかったわけです。

国土交通省、なかんづく観光庁にとって、訪日外国人の増加は長らく追い求めてきた目標だったわけです。また、基本的に国際交流を促進する方向に前向きな外務省にとっても、これは賛同できる目標でした。一方で、国内治安の維持を重視する法務省や警察庁にとって、外国人の入国が増えることには大きな抵抗感がありました。そうでなくとも、外国人犯罪が重大な課題になっている中、外国人の入国を容易にすることは「火に油を注ぐようなもの」だったわけです。

国内の治安機関、特に入国審査を所管する法務省からこのような懸念が表明されれば、国土交通省や外務省も強くは言えなくなってしまいます。そして「現状維持」ということになってしまうわけです。そんな状況の中、総理官邸、特に菅官房長官が「これは前に進めるんだ」という強い姿勢を示し、現状を改革していったわけです。

その結果、東日本大震災によって減少していた訪日外国人数は、震災前年の861万人の水準を回復し、これを上回ったのみならず、年々増加を続け、18年には3119万人にまで増加しました。これによって、外国人観光客による「爆買い」などもあり、旅行業界のみならず、日本経済全体が潤うことになりました。一方で、その間、日本における治安が特に悪化したとは認識されていません。

言ってみれば、それ以前に我が国がとっていた外国人入国にかかるスタンスが慎重すぎたわけです。振り返ってみれば、そこには縦割り行政の弊害があったのです。しかし、現実問題として、その状況を打破するために、関係各省庁はどのような行動をとることができたでしょうか。

元役人として言い訳をするわけではありませんが、どうしても各省庁のレベルでは状況を改善することは困難であったと思います。そこは、どうしても、政治的イニシアティブに期待せざるをえないわけです。官僚とちがい、政治家は民意によって選ばれています。様々なリスクをとる決断を行える立場にあるのです。

踏切前の一時停止は必要か

最近、私が気になっている問題に、踏切における自動車の一時停止の問題があります。CO2排出量削減のからみで、この一時停止の義務をなくすことができないかという議論が出てきました。なんとなく、最近この話を聞かなくなっているような気がするのですが、どうなったのでしょう。

この問題も、CO2排出量削減を目指す環境省、COPをはじめとする国際協力を促進する外務省は、基本的に一時停止義務をなくすことに前向きでしょう。これに対して、鉄道の安全な運行の観点から国土交通省は慎重でしょう。道路交通を所管する警察庁はどうなのでしょう。スムーズに通行できるようになる点は良いのでしょうが、安全という観点からは慎重なのでしょうか。いずれにしても、守るべきものが違う人たちが集まって議論しても、バランスのとれた解決に至るのは難しいでしょう。

ドライバーの方々の率直な意見は、踏切前での停止は「面倒くさい」というところではないでしょうか。私も、正直なところ、そう思っています。CO2の問題以外にも、市街地で道路と線路が入り組んでいるところなんかでは、この一時停止が付近の渋滞を悪化させていると思います。もちろん、踏切が上がっていることを、交差点の青信号と同一視して、そのままのスピードで走り抜けるわけにはいかないような気はしますが、徐行くらいでよいのではないでしょうか?

これも縦割り行政によって、議論が止まっているのかもしれません。もしくは、CO2排出削減の効果がそれほど見込めないとして、安全優先となったのでしょうか?

国家安全保障局の成功

政治的イニシアティブに期待する趣旨のことを書きましたが、行政組織の中で、内閣官房というところが、各省庁の間の調整を行うことになっています。官房長官の指揮下にある組織ですが、ここがうまいこと調整できるとよいと考えることもできます。

そういう意味において、最近うまくいっているのは国家安全保障局ではないでしょうか。14年に内閣官房に新設された部局です。安全保障というと、従来は外交を担う外務省と国の防衛を担う防衛省が中心となり、これに文字通り水際を守る海上保安庁が加わるという世界でした。外交によって良好な安全保障環境を醸成・維持することが第一で、万一の場合にそなえて防衛計画と防衛力を整備し、海上保安庁が日々の尖閣諸島などでの現状変更の試みに対抗するということでした。

しかし、近年、各国の経済社会が情報技術への依存度をますます高めた結果、安全保障問題は経済、通商、科学技術、学術研究をも巻き込む問題になりました。機微技術の防護の問題は冷戦時代からありましたが、機微な技術と民間の平和的な汎用技術との境界があいまいになり、技術開発や学術研究全般にまでこの問題は広がりました。いまや、国際的な研究協力や留学生交流にまで慎重な対応が求められるようになったのです。さらにコロナ禍によって、保健・衛生問題までも安全保障の分野に影響することが明らかになりました。

その中で、国家安全保障局が非常に柔軟な視点からアジェンダ・セッティングを行い、安全保障問題の課題解決に向けて各省庁に必要な取組をうながし、また相互の矛盾を調整しています。しかし、その強力な調整能力の発揮は、その権限の裏付けとして、内閣総理大臣を議長とする国家安全保障会議が存在することによって可能になっています。原則月に2回開催される四大臣会合(総理大臣、官房長官、外務大臣、防衛大臣)がペースメーカーとなり、会合ごとに安全保障上の懸案を整理・調整し、方針を定めていく。この流れが、事務局たる安全保障局に政治的イニシアティブを注入し、強力なドライブ力を与えているわけです。

状況の改善に向けた不断の努力

繰り返しになりますが、「縦割り行政」というのは否定すべくもなく存在しています。元役人の立場でこういうことを言うと責任回避と非難されるかもしれませんが、それぞれの組織に与えられた任務が異なる以上、どうしても避けることができないのです。

冒頭に引用したウィキペディアでの定義に戻ります。「行政機関における不合理な役割分担や各省庁の過剰な管轄意識によって行政サービスが非効率に陥る問題」とされていますが、役割分担が不合理であるから起きているわけではないのです(不合理な分担がないとは言いません)。どのような役割分担であろうと、その分担が合理的であろうと、生じうる問題なのです。また、「過剰な管轄意識」を抱いている人も中にはいますが、ほとんどの官僚は常識的な人間です。過剰な管轄意識によって縦割り行政の弊害が生じているのではなく、それぞれの任務に忠実であるだけで、生じうる問題なのです。

民間企業であれば、利潤追求という観点から、優先度を判断し、柔軟に変化していくことができます。利潤追求というと何か下に見ていると言われそうですが、そうではありません。企業が利益を上げることができるのは、それだけ社会の役に立っているからです。そのマーケット・メカニズムの中で、社会への貢献の方法を工夫し、変化していけるのが民間企業です。

ところが、行政組織にはそれができないのです。法律によって一定の役割を与えられた組織は、その役割を果たすことに専従しなければなりません。もちろん、その中でもより広い視野をもって、全体の中におけるその役割の位置づけを十分に踏まえる努力が必要です。その上で、ぜひ政治的イニシアティブとそれを後押しする国民全体による民主的コントロールをお願いしたいと思います。

最近、「政治が力を持ちすぎて、官僚がやる気をなくしている」という論調をよく目にします。しかし、私の個人的な感覚では、そんなことはないと思います。政治的イニシアティブが強くなることで、より常識的でバランスのとれた行政が行えるようになっていると思います。そして、ほとんどの官僚は、自らの組織の権限や縄張りを広げることより、本当に国民の役に立てていると実感できることにこそ、本当の喜びを感じていると思います。







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