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「アジア太平洋」から「インド太平洋」へ(1/2)

アメリカは最近、IPEFインド太平洋経済枠組みを発足させ、アジア地域への関与のあり方として、TPP環太平洋パートナーシップ協定への復帰の追求を事実上あきらめました。と同時に、「インド太平洋」というコンセプトを改めて強調し、米日豪印というリベラル民主主義の国が、この地域の発展に貢献していく姿勢を示しました。

アメリカのみならず、この30年ほどの間に定着した「アジア太平洋」というコンセプトから、「インド太平洋」というコンセプトにシフトしようという流れがますます明確になってきています。

「アジア太平洋」が開花した90年代

「アジア太平洋」という言葉も、もともと存在していたわけではなく、各国のいろいろな思惑から、少しづつ形成されていったものです。80年代の半ばから少しづつ使われはじめ、90年代に一気に開花した感があります。

当時の国際経済をめぐる状況は、GATT(関税と貿易に関する一般協定)のウルグアイ・ラウンド交渉('86~'94)が成果を挙げられない一方で、ヨーロッパではEC(欧州共同体)からEU(欧州連合)への統合が加速、北米では米加自由貿易協定(89年発効)からNAFTA(北米自由貿易協定、94年発効)へと、地域協力が進展していました。アジアでは90年代前半にマレーシアのマハティール首相がEAEC(東アジア経済コーカス)を提唱しました。

このような流れは、進展が難しくなったグローバルな取組を補完するものでしたが、一方でブロック経済化の懸念も高まりました。特に、東アジアの経済発展が著しかったため、アメリカやオーストラリアは、いかにしてこの地域の発展を自国にも開かれたものとするかに重大な関心を抱いていました。

そこで形成されていったのが「アジア太平洋地域」という考え方でした。それを最も明確な形で体現したのが、APEC(アジア太平洋経済協力)の枠組みです。

80年代、主にこの考え方を推進したのはオーストラリアでした。ホーク豪首相は83年に「アジア太平洋経済コミュニティ構想」を提唱し、80年代後半に各国にAPEC設立を働きかけました。その成果として、89年11月にAPECの第1回閣僚会合がオーストラリア・キャンベラで開催されました。

90年代に、「アジア太平洋」を強力に推進したのはアメリカでした。クリントン大統領の提案により、APECを首脳級に格上げし、93年11月にアメリカ・シアトルにて第1回首脳会合を開催したのです。冷戦終結によって、中国が巨大な経済主体となっていくことが予想されたことや、同時期にマレーシアのマハティール首相が提唱したEAEC構想を打ち消す思惑もあったのだと思います。

ちなみに、日本では外務省と通産省が協力してこの首脳会合に臨みました。シアトルの現場ではかなり大変だったようです。当時、トム・ハンクス主演の映画『めぐり逢えたら』が日本で公開されたのですが、その原題が "Sleepless in Seattle" 。妻を亡くしてシアトルで眠れない夜を過ごす主人公のラジオ・ネームでしたが、APECでのシアトルへの出張者は激務で夜も眠れなかったため、"Sleepless in Seattle" だったというジョークが一部関係者ではやっていました。

「アジア太平洋」or「アジア・太平洋」?

英語では、Asia-Pacific という表記が一般的ですが、日本では90年代前半まで、「アジア太平洋」なのか「アジア・太平洋」なのか、統一されていませんでした。地域が広範なため、外務省の中でも複数の局にまたがっており、明確な表現を決める立場にある部局がありませんでした。それに、たかが「・」ひとつの話です。わざわざ会議を開いたり、決裁書をつくったりして方針を決めようと言う人もおらず、なんとなくそれぞれの文書を作成する人の気分で決めていたというのが実態でした。

しかし、APEC首脳会合が開催されるにいたり、公文書に頻繁に「アジア太平洋」や「アジア・太平洋」が登場するようになります。国会への提出資料や、対外的に公表する文書など、資料ごとに表記が違うというわけにもいかなくなってきます。

当時、総合外交政策局で外交青書の執筆を担当していた私は困ってしまいました。「アジア太平洋」の表記で関連部分の原案を作成し、省内の決裁に回すと、北米局や経済局からはそのままで決裁がおりますが、アジア局は「アジア・太平洋」に修正してきます。

単なる好みやイメージの問題だと思いますが、「アジア太平洋」というとひとつのまとまった地域という印象になります。対して、「アジア・太平洋」というと、アジア地域と太平洋地域という2つの地域があって、それをつなげて呼んでいるという印象になるのだと思います。

私は仕方なく、決裁書を作りました。「アジア太平洋」に「・」を入れるか、入れないかについて、A4で4枚くらいだったと思います。日本としての今後の戦略性からは、「アジア太平洋」の表記が望ましいと思ってはいたのですが、それを言い始めると省内の大激論を引き起こしてしまいます。

そこにはあまり触れずに、英語で Asia and Pacific でも Asia/pacific でもなく、Asia-Pacific となっていることや、日本語の「・」の機能などを引き合いに出し、極力中立的な形で「アジア太平洋」の表記で意思統一しました(その過程でも、どういうわけかアジア局が強く抵抗してきました。より大きな地域の中にアジアが埋没する印象を嫌ったのでしょうか)。論点は「・」だけなので、間違いなく、外務省史上、最も「小さな」テーマの決裁書だったと思います。

このエピソードからもわかるとおり、まさにこの頃が「アジア太平洋」の幕開けだったのです。

「アジア太平洋」の範囲

「アジア太平洋」の名称からは、この地域は環太平洋の国々とアジアの国々全体を含みうるものなのですが、現実にはそうはなりませんでした。

APECは、89年の発足当初、当時のASEAN6か国と日米加豪ニュージーランド、韓国の12か国でしたが、90年代を通じて太平洋に面する国と地域が追加で参加していきました。つまり、91年から98年にかけて、中国、香港、台湾、メキシコ、パプアニューギニア、チリ、ロシア、ベトナム、ペルーが加わり、21経済主体となりました。

別に、「アジア太平洋」=APECメンバーと決まっているわけではないのですが、イメージというのは怖いもので、これが「アジア太平洋」の範囲という印象になりました。つまり、インドや南西アジアの国は含まないという印象になったわけです。

アメリカ大陸や大洋州の国々としては、東アジアの奇跡的発展と連動していたいということが主眼だったのだと思います。また、98年にインドやパキスタンが核実験を行ったことで、両国との経済関係を抑制せざるを得ない状況もありました。

結局、「アジア太平洋」は環太平洋とほぼ同じ範囲という印象になったわけです。そして2000年代に入り、9・11テロを受けてテロとの戦いが喫緊のアジェンダとして浮上するとともに、一向に民主化しない中国を目の当たりにし、「中国よりインドではないか」という考えが強まってきます。

その時、「アジア太平洋」とは別の概念として考え出されたのが、「インド太平洋」の概念だったのです。

(つづく)


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