南シナ海問題~このまま中国がこの海を手中に収めるのか(3/3)
南シナ海問題について国際仲裁裁判所が判断を下してから、今年の7月で5年が経ちました。自らの主張を徹底的に否定された中国は、提訴当事国であるフィリピンをあらゆる手段を使って黙らせようとしてきました。そしてそれによってフィリピン・ドゥテルテ政権は懐柔されてしまったかに見えます。先週まではその流れを見てきました。
この問題はもはやフィリピン一国の問題ではなくなっています。国際社会における法の支配の維持・回復のため、この問題に世界各国が強い関心を持つ必要があります。
ASEANの矛先も鈍る
提訴当事国であるフィリピンが中国に懐柔されてしまったことは、他国の中国に対する矛先をも鈍らせるものでした。ASEANにおいては、それ以前から中国からの支援への依存が大きいカンボジアやラオスが、中国に対して批判的な声明を出すことに反対する傾向がありました。これに加え、それまで急先鋒であったフィリピンが軟化したことで、ASEANとして中国を非難する声明を発出することがますます困難になりました。
ASEANの首脳会議や外相会議で発出される声明においては、この仲裁裁判に明示的に言及することはできず、南シナ海の動きに対するいくつかの国の「懸念に留意する」という文言が入ったり、入らなかったりという状況が続いています(19年6月及び11月の首脳会議議長声明では、「南シナ海・・・での埋め立てなどの活動に対し、いくつかの懸念が表明されたことに留意」となっています。20年9月のASEAN拡大外相会合やASEAN地域フォーラム外相会合も同旨)。
ASEANと中国の間では、南シナ海における「行動規範(COC)」を作成する作業が行われています。これは2002年に作成された「行動宣言(DOC)」を発展させる趣旨のものですが、延々と作業が続けられており、いつ出来上がるのか、見通せません。むしろ、中国としては、このような作業を続けていることを国際社会に示すことで、域外からの批判を抑え込みたいという思いがあるのかもしれません。
19年11月の中国・ASEAN首脳会議では2年以内のCOC策定が謳われましたが、すでにその期限が迫っています。コロナの影響で協議が進まなかったという事情は理解できますが、さらに先延ばしにされる状況が懸念されます。
交渉の状況は外に出てきません(これ自体はおかしくありません)が、断片的に関係者から漏れてくる発言から察すると、COCの内容面でも、中国はCOCの役割を限定的なものとすべく動いていると見られます。中国は、その対象を南シナ海全体ではなく、南沙諸島のみに限定するなど、対象範囲を縮小しようとしているほか、法的拘束力を持たせないようにしていると見られます。スケジュールのさらなる遅延のみでなく、内容が中国によって骨抜きにされるのではないかということが強く懸念されます。
特に、コロナ禍の発生は、違った意味で、中国に「好機」を与えてしまいました。21年7月時点で、ASEAN10か国のうち、ベトナムを除く9か国が中国からワクチンの供給を受けています。中国によるワクチン外交によって、ASEANの対中姿勢が一層あいまいなものとなり、南シナ海における中国の行動を事実上追認するものとなることが懸念されます。
進む中国による現状変更
このように、関係各国の間で協議を続けている中においても、中国による現状変更の動きは途絶えることなく続いています。
南沙諸島における岩礁の埋め立てと、人工島の建設、3000メートル級の滑走路建設、レーダー・通信施設の整備、航空機やミサイルの格納庫の整備、砲台建設など、軍事施設の整備の進行が確認されています。アメリカ国防総省は、19年5月の年次報告書で、中国が「主要な軍事施設を完成させた」と報告しました。
また南沙諸島に中国漁船を大量に動員し、他の国の操業を妨害したり、南シナ海に空母や軍用機を展開するなど、この海域全体における現状変更を確実なものとしようとしています。
19年4月、中国は南沙諸島の一部に大量の漁船を集結させ、フィリピンが実効支配するパグアサ島を念頭に、威嚇的な行動に出ました。その後、6月には、南シナ海で操業中のフィリピン漁船が中国船に衝突されて沈没。この時、中国船が何ら救助活動を行わずに海域を離れたことを受け、フィリピン国内の反中感情が一気に高まりました。
ドゥテルテ大統領は、同年7月の施政方針演説にて、「南シナ海はわれわれのものだ。・・・(仲裁の判断を)しかるべき時がきたら守らせる」と述べました。これを受け、中国は8月の首脳会談にて、フィリピンに対し、南シナ海での石油・天然ガスの共同開発を約束し、再び、フィリピンを懐柔しました。
その後、21年3月から、中国は南沙諸島海域に再度200隻以上の漁船を集結させ、事実上他国漁船の活動を妨害し、これにフィリピンが再度反発しています。
20年1月には、中国の主張する「九段線」の南東の端、インドネシア領ナトゥナ諸島付近で中国漁船約60隻が操業したことに対し、インドネシア国内で反発の声が広がりました。これを受け、インドネシア政府は5月、「九段線」の主張について、「国際法の基本から外れている」とする書簡を国連のグテーレス事務総長に送りました。
軍事的には、毎年のように、中国は「訓練のため」として空母を南シナ海に展開しています。また、19年7月には南沙諸島北側の海域に、20年8月には西沙諸島近くの海域に、発射実験ないし軍事演習のために、それぞれ弾道ミサイルを着弾させています。
それ以外にも、20年4月には、西沙諸島海域でベトナム漁船が中国海警局(海上保安機関)の公船の体当たりを受けて沈没、21年3月には、同海域で中国が軍事訓練を行い、それぞれベトナムが非難しました。21年5月には、中国軍機が南沙諸島を遙かに越え、中国の主張する「九段線」の南端、マレーシア沖まで南下したため、マレーシア軍が緊急発進(スクランブル)する事案が発生しました。
このように、個別の事案に対して、関係国(フィリピン、ベトナム、場合によってマレーシアやインドネシア)が反発し、非難するのですが、それが長続きせず、またASEAN全体としての声に広がらないのが実情です。
その背景には、「一帯一路」などのインフラ整備で中国マネーが流入している(つまり、対中債務が増大している)ことや、ASEANの制度的に親中のカンボジアやラオスが全体の動きをブロックできること、そして上述のように中国ワクチンへの依存があると思われます。
フィリピンの中では、特にドゥテルテ大統領の姿勢が一定しません。21年4月に、フィリピンの権益を守るためなら「軍艦を送る」と述べたと思ったら、翌月には仲裁裁判判断は「ただの紙切れにすぎない」などと、かつての中国側の発言に同調するような発言を行っています。
中国は、このように現地における実力行使を続ける一方で、20年4月、南シナ海を管轄するとする「三沙市」(12年に設置)に、西沙諸島を管轄する「西沙区」、南沙諸島を管轄する「南沙区」を設置したほか、21年2月、海警局の権限と軍事的役割を強化する海警法を施行するなど、支配強化のための国内法体制を着々と整えています。
批判を強めるアメリカ
アメリカは、オバマ、トランプ、バイデン政権を通じて、中国の南シナ海における動きを強く批判しています。アメリカの中国に対する警戒・批判姿勢は多岐にわたりますが、南シナ海問題にかかる中国の行動はその批判の大きな論点になっています。
中国は、15年の米中首脳会談において、南シナ海を軍事化することはしないと明言していたにもかかわらず、南シナ海における埋立によって拡張した島にミサイルの配備を進めており、アメリカはトランプ政権においても繰り返しこれを非難しています(18年10月、19年10月のペンス副大統領演説など)。
もちろん、軍事利用をしなければいいという話ではありません。領有権の主張が入り乱れている海域・領域において、一部の大国が一方的に現状を変更して実効支配を進め、自らの確立した領土・領海であるかのごとくに扱うこと、それ自体が強く非難されるべきことです。
アメリカも、当初は南シナ海の「軍事化」に批判の焦点をあてていましたが、その後(特に20年のコロナ禍での米中対立激化以降)は、軍事化のみならず中国によるこの海域での権利主張そのものを非難する姿勢を強めました。
20年7月、トランプ政権のポンペイオ国務長官は「中国の南シナ海のほぼ全域にまたがる海洋権益の主張は、完全に不法である」との声明を発しました。バイデン政権でも、21年1月、ブリンケン国務長官はフィリピンのロクシン外相に対し、「国際法で認められる範囲を越えた中国による海洋権益の主張は拒否する」と述べ、同様の姿勢を示しました。
アメリカは20年8月以降、南シナ海での人工島造成や軍事拠点化などに責任を負う企業や個人に対し、入国禁止や取引禁止の制裁をとることを決めました。
また、米国を中心に「航行の自由作戦」が継続されています。これは南シナ海のみで行われているものではありませんが、南シナ海においては、中国が支配する岩礁から12カイリ内の海域を中国に事前に通告することなく航行し、航行の自由を主張しています(通常の領土の場合、12カイリまでが領海であり、その範囲は各国が無害通航権を有する)。
アメリカが空母や駆逐艦を派遣することで、中国の勝手な動きを牽制するという意味は大きいと思います。ただ、実際問題として中国による岩礁支配の状況を押しとどめる効果は得られていません。そもそも、岩礁が中国の領土であったとしても、無害通航権は保障されるわけですから、論理的には、この「航行の自由作戦」は中国による岩礁支配を非難することになっていないのではないでしょうか(米艦船が「無害でない通航」を行っているのだとすれば別ですが、そのあたりは明らかにされていません)。
一方的現状変更を追認してはならない
以上のように、国際仲裁裁判という場において、明示的に司法による判断が下ったにもかかわらず、それが履行されていません。
それどころか、国家元首が堂々と「いかなる状況下でも仲裁判断の影響を受けない」と表明し、政府高官が「紙クズにすぎない」と言い放つ。異論のある者はカネの力で黙らせる。それは結局大国であるからできることであり、中小国には同じことはできないのです。国際社会における正義、秩序、法の支配がいかに不完全であるかを思い知らされる状況になっています。
振り返ってみれば、中国のこのような行動は、ロシアによるクリミア侵攻と奪取の「成功」の後に強化されました。
中国による南シナ海にかかる権利の主張は、このクリミア問題以前から行われていましたが、このクリミア問題の展開を見て、違法ないし違法に近い手段を用いてでも、実効支配を確立することが重要であると認識した可能性があります。
実効支配を確立し、既成事実化する。後は時がたてば、それが受け入れられていく。それが世界の現実であると。中国政府内で意思決定にかかわる要人の間に、少なくとも一般論としては、そのような認識が醸成されたことは確かでしょう。実際問題として、ロシアによるクリミア併合(2014年3月)とほぼ同時期から、中国による南沙諸島の急速な埋め立て・施設建設が強力に進められていったのです。
この状況につき、マイケル・グリーン・ジョージタウン大学教授は、中国による近隣諸国に対する「段階的な領土回復主義」に対して、国際システムは意外にもろいことを指摘しています(フォーリン・アフェアーズ・リポート2020.8月)。特に、安保理において拒否権を有する国による行動に対しては、国際社会の脆弱性が露呈すると言えます。
ロシアによるクリミア併合はある意味で「段階的」ではありましたが、最後の一手は急速でした。それさえも国際社会は実効的に対処することができていません。その状況に学んだ中国が、その経済力と軍事力を合わせ技にして、南シナ海における現状変更を進め、国際社会に中国による支配を追認させようと狙っているのです。
国際社会における法の支配、国際秩序を守るためには、中国、ロシアによるこのような行動を決して追認しないという強い意志が必要です。トランプ大統領(当時)がロシアをG7の枠組みに戻す案を口にしていましたが、ロシアがクリミアをウクライナに返還しないかぎり、ロシアをG7の枠組みに戻すことは決して認めてはならないでしょう。
中国との関係についても同様に対応する必要があります。経済大国となり世界経済の動きに密接にかかわっている中国を、世界から完全に排除することはできませんし、そうすることは世界にとって良いことだとは思いません。だからといって、中国に足元を見られてはいけないと思います。
中国に対する経済的依存を相対化していき、場合によっては中国との関係を大きく調整することができるようにしてく必要があるでしょう。そして、中国の一方的行動によって形成された南シナ海の状況を追認することを断固として拒否するとともに、中国が国際社会の一員として、責任をもった行動をとるよう、強く働きかけていく必要があります。
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