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ドラマの設定が非現実的だとか、そういったこと(1)

noteから「テレビドラマ感想文」というお題が出されましたので、今回はいつもとちょっと違う感じのことを書いてみたいと思います。テレビドラマは結構好きで、いつも数本は観ているという感じです。感想を書くにあたり、何か切り口があった方がよいかと思い、設定や登場人物の行動が現実的か非現実的か、どこまで許容できるものか、といったことを考えながら、感想を書かせていただきたいと思います。

天国と地獄、王子と乞食

3月までのクールで、『天国と地獄~サイコな2人~』(TBS系)というとても面白いドラマがありました。綾瀬はるかが演じる刑事と高橋一生が演じる殺人鬼(と疑われる人)の身体が入れ替わるというもので、この設定から当然のように想定される展開だけでなく、そこに収まらない二転三転があり、まさに目が離せませんでした。

この入れ替わり系のお話しは、遡れば、マーク・トウェインの『王子と乞食』(1881年)あたりが源流なのでしょうか。

『王子と乞食』は、見た目そっくりの王子と乞食が偶然出会い、自分たちの意思で服を取り換えて、それぞれの生活を入れ替える話。その後、元に戻りたくても周囲に信じてもらえなくなります。それによって、自分が知らなかったいろいろなことが見えてくるという話です。なので、厳密には身体が入れ替わるわけではありませんが、人生の入れ替えということではインスピレーションを与えるものだと思います。

この入れ替わり系のお話の魅力は、もし自分がその人の立場だったらどうなのか、ということを半ば強制的に体験させられる。そして深く反省し、自分の考え方や行動を改めるというところでしょう。英語の表現で言えば、「もしあなたがその人の靴を履いていたのなら・・・」ということで、まさに『王子と乞食』です。

(以下ややネタバレ注意)ただ、今回の『天国と地獄』の場合、「入れ替わり→相手の立場で考える→反省」というよりは、刑事が殺人犯として追われる立場になる→「ん、違うんじゃないか」となり、それがドラマの二転三転と重なってきます。したがって、内面的「反省」の要素はあまりありません。自分の思い込んでいたことが実は事実ではなかった。「入れ替わり」がそれに気づかせたという、非常に手のこんだ変形バージョンになっているわけです。

入れ替わりドラマの系譜

日本の映画やドラマでは、このような入れ替わり設定は多く用いられてきました。私たちになじみのあるところで言えば、1982年の大林宣彦監督の映画『転校生』で、尾身としのりと小林聡美が演ずる中学生が入れ替わったのがまず思い浮かびます。

07年には、舘ひろしと新垣結衣が入れ替わります(TBSドラマ『パパとムスメの7日間』)し、13年には川口春奈と鈴木砂羽が入れ替わります(TBSドラマ『夫のカノジョ』)。

ん、なんかTBSが多いな、と思って調べてみたら、他にも未見のものがたくさん。

篠原涼子と古田新太の入れ替わり(03年日テレ『ぼくの魔法使い』)、泉ピン子と宮崎あおいの入れ替わり(04年NHK『ちょっと待って、神様』)、松田翔太と高橋克実(11年日テレ『ドン★キホーテ』)、永作博美と石田ゆり子(14年NHK『さよなら私』)、などなど。

そういえば、17年フジの『ぼくは麻里のなか』でも、吉沢亮と池田エライザが入れ替わりましたね。(テレビドラマ以外では、もちろん新海誠監督の『君の名は。』(16年)がありました。)

やっぱり、この「入れ替わり→相手の立場で考える→反省」というドラマは、日本人好みなのですね。海外ではどうなんでしょう。

海外の入れ替わり例

テレビはわからないのですが、映画ではいくつか。

ジョン・ウー監督のハリウッド映画『フェイス/オフ』(97年)では、ジョン・トラボルタ演じるFBI捜査官とニコラス・ケイジが演じるテロリストが入れ替わります。入れ替わるといっても、特殊な手術によって顔を入れ替えるということなので、ちょっと違うのですが、コンセプトは同じです。

ただ、テロリストがあまりに凶悪なので、「相手の立場で考える→反省」というドラマでは全くありませんでした。私としては、トラボルタの顔を憎めばよいのか、ニコラス・ケイジの顔を憎むべきなのか、大いに戸惑いました(でも、ジョン・ウー・アクション炸裂で最高に面白い映画です)。

もう少し遡ると、ダン・エークロイド演じるエリート会社員とエディ・マーフィ演じるホームレスが入れ替わる映画『大逆転』(83年)なんていうのもありました。原題は"Trading Places"で、まさに入れ替わりです。これは「王子と乞食」類似パターンです。ダン・エークロイドが務める会社のトップの兄弟二人が、「血筋と環境とどちらが大切か」という賭けをして、その実証のために二人の立場を強制的に入れ替えるというもの。

結局、ダン・エークロイドは落ちぶれていき、血筋はあまり重要でないという流れになります。最後は、意気投合した主人公二人による仕掛け人の兄弟に対する復讐劇になり、欲に目がくらんだ兄弟が株の暴落で破産するというコメディです(ちなみに、この兄弟は、5年後のエディ・マーフィ主演映画『星の王子ニューヨークへ行く』で、破産の後、ホームレスになった姿で登場するという、息の長~いオチがあります)。

非現実的な設定は大丈夫か

話が長くなってきましたが、こういった入れ替わりの設定が非現実的であることは議論の余地がないでしょう。

一番ありえそうなのは『王子と乞食』パターンですが、いくら瓜二つといっても、性格や知識がちがうわけですから、周囲の人間が気づかないはずはないでしょう。『フェイス/オフ』では手術で顔を入れ替えるのですが、いくら皮膚を移植しても、骨格からして違うわけですから、絶対に同じ顔にはなりません。ましてや、二人で階段を転げ落ちるだけで人生が入れ替わるのでしたら、みんなやっています。

でも、このような非現実的な設定は多くの人が受け入れて、楽しむことができます。そこについてとやかく言うのではなくて、それによって生まれるドラマや表現されるテーマの方が大切だと思うからでしょう。

アメリカ・ドラマの日本リメイクの違和感

最近、アメリカのテレビドラマが日本でリメイクされることが増えているような気がします。『SUITS/スーツ』(18年、20年フジ)や『24 JAPAN』(20-21年テレ朝)などです。このどちらも、とても楽しませてもらいましたが、日本における現実とのズレが気にならなかったかというと嘘になります。

どちらのシリーズも、日本人の名前の登場人物が日本を舞台に活躍するのですが、登場人物の間の人間関係や組織の位置づけ・動き方、場所の雰囲気などが、どうしてもしっくりこないのです。

『SUITS/スーツ』は、弁護士事務所の部屋から皇居のお堀が見えますので、明らかに東京の都心を舞台にしているのですが、街並みやレストランの雰囲気、中島裕翔演じる弁護士(のふりをしている青年)の住んでいる部屋など、まるでマンハッタンのような雰囲気に感じました(もちろん、東京でロケをしているのでしょうけど)。

人間関係については、特に『24 JAPAN』で違和感を感じました。上司・部下・同僚の人間関係があまりにフレンドリーで組織人の感じがしないのです。上司に対しては、一応「班長」「支部長」などの肩書で呼んでいるのですが、会話の内容や全体の雰囲気に上下関係を感じないのです。また、家族間でも、二十歳近いと思われる息子が、両親を「パパ」「ママ」と呼ぶところなど、見ていてつらいものがありました。

映画の吹き替え版を観た時に、もとの言語で観た時と印象がずいぶん違うことがあります。『リーサル・ウェポン』では、メル・ギブソンとダニー・グローバーが英語では対等なバディという感じなのに、日本語になるとダニー・グローバーが上司でメル・ギブソンが部下という感じになっていたりします。『24 JAPAN』では、それと逆のことが起きている感じです。

『24 JAPAN』については、もともとのアメリカ版のコンセプトから無理が生じている部分はありますので、現実とのズレがさらに気になるのでしょうか。24時間の話を24週間かけてやるわけなので、その中でドラマチックな展開をしなければならないわけです。なので、すべての登場人物がほとんど寝ません。つい半日前に反目していた二人が、急にものすごい信頼関係の絆で結ばれたりします。

(外国版の翻案の場合、本国著作権者との交渉でいろいろと難しい条件をつけられたりするのだと思います。その中で、「こんなのおかしいんだけど」というようなことが多々あると思います。日本版のプロデューサーや翻訳脚本家の方のご苦労が偲ばれます。)

「どこまで許されるか」ではなく「どこから許されるか」なのか?

上で述べたようなことは、現実的にはもしかしたらあるのかもしれないけど、「何か変」ということでしょう。それが気持ち悪い感じがするのかもしれません。

それに比べて、『SUITS/スーツ』の中島裕翔が、一旦見た資料を隅から隅まですべて暗記できるという設定は、よほど非現実的です(もちろん、『レインマン』(88年)のダスティン・ホフマン(レイモンド)のようにサヴァン症候群の人にはそういう能力があるらしいですが)。それは非現実的でも、そこの部分は受け入れられて楽しめている自分がいます。

『24 JAPAN』でも、テロ対策ユニットなる組織の人間が、警察でもないのに自由に拳銃を使ったり、数分でヘリ部隊を動員したりしていることなど、かなり非現実的ですが、そこも「まあいいんじゃないか」と思えるような気がします。

こう考えると、明らかに非現実的な設定については、むしろ、あまりに非現実的だからこそ、現実とのズレを気にすることなく、楽しめるのかもしれません。なので、設定の非現実性は、「どこまで許容できるのか」というよりも、「どこから許容できるのか」という問題のようにも思います。

映画『シン・ゴジラ』(16年)では、ゴジラという巨大怪獣が出現することの非現実性はそっくり脇に置いておいて、緊急事態に対応する政府や国会の中の動きが現実のものに近く描かれていたことで重厚感が増し、とても楽しめました(長谷川博己演じる官房副長官が若々しすぎますが)。

言い忘れましたが、能の宗家の後継ぎ候補がプロレスラーをやっているというぶっ飛んだ設定もOKです(TBS『俺の家の話』)。驚愕のラストが長瀬智也の引退と重なり、感慨ひとしおです。

未知のウィルスに感染した人が生ける屍になるというのも、(たぶん)非現実的ですよね(日テレ『君と世界が終わる日に』)。

ゾンビものは、極限状態に置かれた人間の心理を描くのに最適なテーマとして古くから扱われてきました(専門の方が多々おられますので詳細は割愛します)が、こんなすごい殺戮ものを22時半にやる時代になったのだなと思いました。14年テレ東の『玉川区役所 OF THE DEAD』は結構かわいらしかったですが、24時過ぎでしたね。

『君と~』については、個人的には、主人公二人が反目するに至る流れが今一つ納得できませんでしたが、全体としては、映画を見ているような迫力で、引き込まれました(後ろから弓矢を構えている恋人に対して、なぜ振り返る前に「私よ」と言わないのでしょうか)。

と、ここまで考えたところで、大きな忘れ物に気付きました。「非現実的な」設定ということでは、「人物入れ替わり」と双璧をなす「タイムスリップ」ものを忘れていました。特にこの3月まではフジ『知ってるワイフ』、日テレ『江戸モアゼル』というタイムスリップものがありました。これはこれで、また話が長くなりますので、

「来週につづく」

ということで。

(見出し画像は、TBSのホームページのものを引用させていただきました。ありがとうございます。)





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