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映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』~イオン・プロ執念の傑作

先日、ようやく公開された007最新作『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』を観てきました。当初20年2月に全世界公開がアナウンスされていながら、コロナ禍の影響で何度も延期され、ようやく公開された待望の新作。結局前作『007 スペクター』から6年を経ての公開となりました。この、コロナ禍の中で無理に製作・公開しないという姿勢、そして2時間44分というこれまでにない長尺から、制作・配給会社双方の並々ならぬ意気込みを感じていましたが、その執念を感じられる傑作だと思いました。

(ネタバレを避けるよう、結末部分は極力ぼかして書きましたが、それでもおおよその内容はわかってしまうと思います。そうでないとこの映画は語れませんので、すみません。これからこの映画を観られる方に一言だけ。ぜひ、シリーズ第6作目『女王陛下の007』を先に観ることをお勧めします。)

シリーズ全体の中での位置づけ

007シリーズは、それぞれの作品の前後関係や関連性をどのように理解してよいのかよくわからない場合があります。

私の承知するかぎり、基本的に、どの作品でも年号が出てこないので、それぞれの作品の内容の順序ははっきりしません。原作の書かれた順序と映画化の順序も違います。ただ、映画ではたまにボンドが墓参りをすることがあり、その墓に年号が刻まれています。69年の第6作『女王陛下の007』(ボンド役:ジョージ・レーゼンビー)でボンドの新婚の奥さんのトレイシーが亡くなるのですが、第12作『007/ユア・アイズ・オンリー』(ボンド役:ロジャー・ムーア)の冒頭、ボンドがトレイシーの墓参りをします。そのトレイシーの墓に没年は69年と刻まれています。

今回の『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』冒頭でもボンドがかつて恋仲になったヴェスパ・リンドの墓参りをします。ヴェスパ・リンドは06年のダニエル・クレイグ主演第一作の『007/カジノロワイヤル』で亡くなるのですが、その墓には没年06年となっています。(余談ですが、この2作で、ボンドが墓参りをすると命が危ないというジンクスが出来上がった気がします。といっても、ボンドはいつも命が危ないんですが・・・)

また、それぞれの作品の背景にある国際政治の状況もあります。第2作目の『007/危機一発』(再公開時『007/ロシアより愛をこめて』)や第5作目の『007は二度死ぬ』は、米ソの冷戦時代であることが明らかですし、第4作目の『007/サンダーボール作戦』、第10作目の『007/私を愛したスパイ』、第12作目『007/ユア・アイズ・オンリー』、第13作目『007/オクトパシー』あたりも冷戦を前提としていることが伺えます。第14作目の『007/美しき獲物たち』はシリコンバレーの重要性が増している時代を示唆しています。

このように、それぞれの作品が製作された年の「現在」を舞台にしていると推定されるところがあり、また作品を越えて一定のつながりがあると見ることができます。ただ、一作目の『007は殺しの番号』(再公開時『007/ドクター・ノオ』)が62年ですから、それから59年経っています。59年間ジェームズ・ボンドが第一線で活躍(時々引退しますが)していると考えるのも無理があります。

宿敵ブロフェルドの外見にも一貫性がありません。クレイグ版になるまでは、つるっと禿げあがった頭でしたが、クレイグ版では髪の毛があります。一方で、『007 スペクター』でボンドに負けたブロフェルドは顔面右側に深い傷を負いますが、この傷はショーン・コネリー版の『007は二度死ぬ』に出てくるブロフェルドの傷とそっくりです。ところが、『二度死ぬ』に続く『女王陛下』では傷はきれいに治っています。さらに言えば、『女王陛下』で首にギブスをはめることになったブロフェルドですが、ロジャー・ムーア版の『ユア・アイズ・オンリー』で車椅子に乗って首にギブスをはめて頭の禿げあがった何者か(正体不明)に命を狙われます。

ダニエル・クレイグ主演の007シリーズ5作品の範囲だけを見ると、このようなあいまいさが排除され、一応明確に5作品が製作年順につながっています。ただ、MI6のヘッドMの存在だけがネックです。ピアース・ブロスナンの時代からクレイグの時代前半までジュディ・デンチがMを務め、今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』でデンチとそれ以前の映画のMの肖像画がMI6の廊下(?)に飾ってあるのがちらっと見えます。イオン・プロはむしろ観客を混乱させているような気さえしますが、単なるオマージュと考えて、「たまたま似た人」、「たまたま似た傷」と考えればよいのでしょうか。

クレイグ最初の『007/カジノロワイヤル』は、ジェームズ・ボンドが007になるまでの物語と位置づけられており、今回の『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』はボンド最後の事件であることがエンディングで明らかになります。とりあえず、クレイグ版5作が、ボンドの現役時代の初めから終わりまでを網羅しているということだけは言えるでしょう。

宿敵ブロフェルドとの対決

過去の007シリーズでは、適役はロシアであったり、黄金好きのおっちゃんであったり、南米の麻薬王であったり、様々ですが、ダニエル・クレイグのシリーズでは、ボンドと宿敵ブロフェルド(とその犯罪組織スペクター)との闘いが主軸に据えられています。『007 スカイフォール』のみイレギュラーで、Mに恨みを抱く元MI6諜報部員が悪役ですが、ボンドの出生の秘密とブロフェルドの関係につながるエピソードが登場します。

クレイグ主演のシリーズでは、上述の元MI6諜報部員のように、悪者がかなり個人的な怨恨によって壮大な悪事を働いているという印象があります。前作『007 スペクター』で、ブロフェルドがジェームズ・ボンドの義理の兄であったことが明らかになりました。そしてボンドが自分の実の父親の寵愛を受けていたことを妬み、父親を殺害した上で、ボンドを恨み続けてきたとされました。

正直なところ、この流れには納得しづらいところがあります。ブロフェルドとスペクターの数々の悪事、そこでは、どうしても過去の007作品を思い出さざるをえません。核兵器を奪って核兵器国に身代金を要求したり、自らロケットを打ち上げて米ソのロケットを奪取したりと、相当な資金をつぎ込んで各国政府を脅しにかけるようなことが、そのような個人的な怨恨、それも義理の弟に対する妬みから発生していたとでも言うような流れは、飲み込みづらいものです。

今回の『ノー・タイム・トゥ・ダイ』では、過去にスペクターに家族を殺されたサフィンという男が主たる悪役です。スペクターすべてを壊滅させるという執念をもち、DNA情報をもとにターゲットを特定する細菌兵器によってこれを実現します。ブロフェルドはイギリスで収監されていましたが、サフィンはボンドのかつての恋人で精神科医のマドレーヌ(ブロフェルドのかつての部下の娘)を脅して細菌兵器を運ばせ、殺害に成功します。マドレーヌが手首に塗った細菌兵器に、ボンドが知らずに触れ、その手でボンドがブロフェルドに触れたことでブロフェルドは絶命します。

ボンドとブロフェルドとの闘いは前作で実質的に決着がついているとはいえ、ややあっけない最期と感じました。ただ、ここでサフィンの目的は達せられたのだと思うのですが、その後も、サフィンは細菌兵器を用いて世界を支配ないし壊滅させようとします。そのあたりの動機は、よくわかりません。なぜなのでしょう。

美しいラブストーリー

このように、必ずしも納得できないところはあるのですが、それでも私はこの『ノー・タイム・トゥ・ダイ』を好きになってしまいました。それは、ラブストーリーとしての美しさゆえだと思います。

これまでの007シリーズで屈指のラブストーリーといえば、前出の第6作目『女王陛下の007』でしょう。不遇の俳優ジョージ・レーゼンビーが主演を務めた唯一のボンド映画。この映画でボンドとブロフェルドのボブスレー決闘の末、ブロフェルドは木に首を打ち付けられます。映画最後にボンドはトレイシーと結婚し、MI6を辞めます(所帯持ちは00エージェントになれないという掟があるようです)。結婚式の後、車で新婚旅行に向かう途中、死んだと思っていたブロフェルド一味の銃撃にあい、流れ弾でトレイシーは帰らぬ人となってしまいます。

この映画で愛のテーマとも言える位置づけで流れた曲が、ルイ・アームストロングの『We Have All the Time in the World』でした。『ノー・タイム・トゥ・ダイ』の冒頭、引退したボンドがマドレーヌと南イタリアをドライブする場面。先を急ぐマドレーヌにボンドが言います。「We Have All the Time in the World」。そして、インストゥルメンタルでこの曲が流れます。

『女王陛下の007』で不幸な結末に終わってしまったボンドとトレイシーの恋愛が、この映画のボンドとマドレーヌに引き継がれ、その恋愛がようやく成就する話なのだと、いやこの映画で是非成就してほしい、そう感じさせる幕開けでした。心なしか、この冒頭のドライブの場面は、トレイシーの悲劇が起きた場所と似たような場所でした。まさにボンドとトレイシーのドライブの続きのようにも感じました。

『ノー・タイム・トゥ・ダイ』の中盤で、ボンドとMがテムズ川のほとりで会話をする場面では、『女王陛下の007』のボンドのテーマ曲がバックに流れます。また、マドレーヌとボンドの「共同作業」にてブロフェルドが殺害されるのも、ボンドとトレイシーの怨念がそうさせたと感じさせるものがありました。

しかし、エンディング。今度は全く逆の形で二人は引き裂かれてしまいます。最後にボンドがマドレーヌに言うセリフが、「We Have All the Time in the World」。二人の間にはマチルダという娘が生まれていたことがわかります。もう一度インストゥルメンタルでこの曲が流れる中、あの南イタリアの道を今度はマドレーヌとマチルダがドライブをします。このマチルダの存在が、「We Have All the Time in the World」の意味なのかもしれない、そう思いました。

そして、エンドクレジット。なんと、インストゥルメンタルではなく、ルイ・アームストロングの歌自体が流れるのです。ボンドの最後のセリフを聞いたときから、私はぜひこの歌を最後に流してほしいと思っていました。いろいろと権利の問題もあるから難しいかもと思いましたが、そのあたりの困難を乗り越えてこれを流してくれたことに、イオン・プロの執念を感じました。

この歌は、『女王陛下の007』ではオープニングに流れるのではなく、映画の途中でボンドとトレイシーが幸せにデートする場面で流れていました。エンディングでこの歌を聞きながら、このボンドとトレイシーのデートの場面も思い出し、涙せずにはいられませんでした。

エンドクレジットの最後、007シリーズは「James Bond Will Return」の文字で締めくくられるのがお約束です。今回は出ないのかもしれないと思って見ていましたが、大きくこの文字が出てきました。次はどのようなシリーズになるのでしょうか。これからも傑作をつくり続けてほしいです。







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