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ダイバーシティの初歩を全く理解できていない時代錯誤な人もいる、という多様性を受け止めるダイバーシティ

東京オリンピック・パラリンピック森喜朗会長の失言

かつて一国の代表を務めていた、つまりは国際社会の論調の中で、日本という国の中で起こる声を代弁していたこともある立場として、今時考えられない発言を、公の場で、しかも自信満々に語ったと言う暴挙がニュースが報じられている。

不貞腐れ気味の謝罪会見と言い、ここまでくると、お見事! と感心する他ない。

メディアで聞こえてくる反応としても、羞恥しか感じ得ない人々が多いし、やめろやめろ、と声をあげる気持ちも道理だが、それだけでも芸がないだろう。いや、むしろそれで本当に問題は片付くのだろうか。

問題の根っこにあるもの

そもそも、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言自身を掘り下げていくときりはないが、その発想のベースにはどういう統計があるのか、経験をベースとした自分の印象なのか、これまでご自身はどういう会議体を経験してきたのか、国会答弁も含めてあらかじめ全て台本が用意されている茶番会議ばかりを経験してきてるからこそ本来十分な議論と時間が必要とされるような理事会があることをそもそも知らないのではないか、もともと男性の中にも女性の中にもいろんなタイプがいる当たり前の世の中で未だに「男性v.s.女性」という枠組みで物事を語れるその大胆さは計算されたものなのかどうか、素朴な疑問は尽きない。

しかし、今回の発言が衝撃的なのは、たとえどんなバックグラウンドがあろうと、国際的なイベントを行う立場のリーダーとして、たとえ、心のすみでそんなふうに思っていたとしても、これは言っちゃったらダメだな、と、ブレーキがかからなかったこと。

言っちゃダメだ、ということを知ってか知らずか思い切って言っちゃうと、結構ウケるかも、ということを徹底的にやり続けてきた他国の大統領も頭に浮かぶが、そこまでのウケ狙い、の意図も感じられない。

つまり、以下、2点において、まるで無防備出会ったわけだ。

1. そもそも、根拠もなく公の場で、性差別、女性蔑視発言を行ったこと

2. そのような発言が国際的にも批判を浴びること必至であることに、全く無頓着であったこと

ダイバーシティのはるか手前で…

このような人物が、一国の運命を預かる総理大臣を司っていたという事実が、さらに衝撃的なわけだが、上記に言及した、国際的に影響力の大きな国において、この何百倍も上をいく発言を繰り返しながら4年も大統領を勤めた人物もいるくらいだから、案外、国の運営というのは、人々が心配するよりもなんとか行くものだ、と言っても良いかも知れない。

とはいえ、1年遅れのオリンピックを開催できるかどうか、という重要な局面でなされた発言であり、対応が注目されている。

日本でも、ここ数年、ダイバーシティという言葉が浸透してきた。いろんな意味で、人々の多様性を生かしていける社会にしよう、という思いが込められている。性別、人種、性格、宗教いろんなファクターがあり、島国である日本にとって、一部、浸透するのに時間を要している感がなくもない。

とはいえ、性別については、現在LGBTの受け入れが話題になることはあるが、まさか、こんな初歩的な、女性蔑視がなされるとは… と驚いた人が多いことも事実だろう。

ある意味、いま、日本で一番、ダイバーシティを率先して進めるリーダーたるべき、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長である。

ダイバーシティの初歩というか、まあ、それ以前の問題だ。

ダイバーシティの初歩を全く理解できていない時代錯誤な人もいる、という多様性

が、元首相の発言は、もちろんダイバーシティの最も基本である部分でどうしようもなく幼稚なのだが、かくの如き人物が存在する、といことも現実であろう。

それが、彼個人にかなり特有な症状なのか、83才という年齢がそうさせるのか、世代の問題なのか、政治家という職種につきまとう習慣なのか、具体的に最近関わった会議体において苦い経験が払拭できないのか、はわからない。

が、もしかすると、そう思っている人物が彼だけでない可能性も否定できない。

米国の大統領選挙では、他国の、ひとりの一般人としては、人間として信じがたい行動・発言をする人間がいるものだ、とは思っていたが、そういう彼が半数には届かないものの、7000万票以上を獲得しているのだ。

ひとりの人間にとっては信じがたいことを、想像できないほどの数の人々が支持する、ということもよくある話なのだ。

試されるダイバーシティ

であれば、そのような実に多様な人物がいる、といことを認めることもまた、ダイバーシティの一歩、基本と言える。

ここは一つ、辞任などしてもらわず、こんな、時代遅れの事実認識しか出来ず、かつ百歩間違えて事実本人がそう感じていたとしてもそんな発言をすると国際社会ではまずいという感覚すら持ち合わせていない、そんな輩をトップに据えても、国際的なイベントをリードすら出来るという、日本のダイバーシティの多様さと、組織のフォローのたくみさを訴えるチャンスと言えよう。

トップの失言を、裏で、組織の力で穏便に納め、なんとかしのごう、と言っているのではない。

もう「トップもアホなこと言いますが、こんなアホでもやれることはやってもらいます。すごいでしょ、日本の社会は、今や、こんなアホでも生きていけるほど、多様性に寛容になってきているのです。いわんや、性別、人種、性格、宗教においておや。」と、開き直って、その上を行くパフォーマンスを見せつける、ということだ。東京オリンピック・パラリンピック組織委員会自ら、会長こき下ろしながら、もっと積極的なダイバーシティの実践を世界に知らしめる。

かつて、右足を負傷というハンデを背負いながらも、モハメド・ラシュワンに一本勝ちして金メダルを取った山下JOC会長なら、この程度のハンデなど、取るにたるまい。

唖然とする時ほど、Think oppositeの余裕と知性と勇気

イジメが行われた学校で、部活動自体、学校自体に活動停止という罰を与えてしまえ、という論調。米国で行われている、政治的に意見の異なるグループによる大規模なシーソーゲーム。これらにも通ずるが、反対意見や違反行為を目にした時、けしからん、まずい、と反応するのは容易いが、それはあくまで、一つの立場からの視点にほかならない。例え、それが本当に最終的に正しかったとしても。

その片方の視点から反応してしまう、ということ自体が、その問題点を見る上での一番の問題であることに、そろそろ我々も気付くべきだ。

つまり、失言をした森会長を辞任させれば物事が真の意味で片付く訳ではない(政治的に、そうすべき、という話はまた別なので否定はしない)。そのように考える人物がまだ世の中にきっと少なからずおり、事実、そのような人々が一定数いる社会に我々は暮らしている、ということを認識することがスタート地点のはずだ。

ネットを介して、自分に都合の良い情報ばかりが自動的に集まってしまう現代の社会だからこそ。

腹が立つ側の人間が、声をあげることは重要。だからと言って、過剰な反応で相手側を徹底糾弾すれば、黙って相手は気持ちにふたをしてより醸成させることだろう。誰かの掛け声をきっかけに、何かのはずみで議事堂に襲い掛からないとも限らない。

本当に、何が正しいのか、を議論するためには、両者(あるいは第三の意見も含めて)を俯瞰する他ない。それをしない限り、本当の意味での問題解決は、絶対になされない。

その先、本当の意味での解決に至る道のりが容易いものではないことはもちろんのことだが。ダイバーシティとは、単なる聞こえの良いキャッチフレーズではなく、もっと、実はある種過激な思想でもある。

(ただし、上記は、いじめ問題において、いじめられる側にも理由がある、などという、根拠のない安易な言い訳を肯定するものでは全くない。機会があればいずれ論じたいと思う。)

だからこそ、あえて、自分には信じられない局面においてこそ、Think oppositeしてみる余裕と知性と勇気が必要

それこそが成熟した社会といえるのでは無いか。


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