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知と不知のバランス…

50を過ぎて…

お恥ずかしながら、50という、とりあえずの節目の年齢を超えて、すでに1年以上経つが、このところ、自分の無知に恐れ入る。

鯵のたたきは好きだったが、具体的なさばき方も最近まで知らなかったし、

パラリンピックの競技にボッチャというのがあったことも知らなかったし、

古代ローマ以前のエルトリア人がすでに歯のインプラント技術を持っていたことも知らなかった…

正直にいえば、ナポレオン、という昔フランスで暴れていた有名人の肖像画はなんとなく知っていた気はするのだが、彼の活躍というか暴れっぷりというか、歴史的な位置付け、フランス革命がどのようにして起こり、どのような文脈で彼が登場してきたか、そのほか、全く知らなかった…

建築好きではあり、大学時代、初めてのヨーロッパでドゴール空港からバスで運ばれて、誰もいなくて不安ながらバスで降りた場所が、確か凱旋門の前で、おお、これがフランスなのか! と驚愕しながら、その後、月並みにフランス映画、フランス現代哲学を、なんとなく触りだけ知ったフリしてたけど、よくこの年になるまで、フランス革命について、何も知ろうとせずにやり過ごせたもの…

よくよく考えてみると、高校時代、理系or文系? という、かなり大雑把というか、暴力的な進路選択の慣習を疑うこともせず、数学大好きな身として、歴史、政治、経済というものをきちんと学ばなかったことも事実だろうが、にしてもひどい…

マルクス? 孔子? エムボマ? フーコー? マイケルジョーダン? ガンジー? 渋沢? フセイン? サンタクロース? ペニョフスキー? マンデラ? 大根先生?

はて、自分は世界の偉人ですら、どこまで知っているというのか。

でもって学ぶことの楽しみ

という訳で、落胆は大きいが、逆に考えれば、まだまだ世の中学ぶことが多い、というのは、悪い話ではなく、いろんな課題は多いものの、やはり情報化社会。

その言語を使ってる人自体が、数千人しかいないと言われるカラーシャ語だって、日本語で指南してくれる人がいたり、

野球で早い球の投げ方もYouTubeで教えてくれるし、

どうも海外にいると、日本とセミの鳴き声に差があるのではないか、という疑問が解消されなかったのだが、そういう各国の蝉の鳴き声すら聞くことができる。

賢くなるということ

というわけで、とかく目の前の仕事や個人的な厄介な問題から現実逃避したいことが多い今日この頃、にわか勉学精神が向上し、そんな時、即座にこんなコンテンツに巡り会えるこの時代には、感謝限りない。

かつて、自分が幼少期の頃は、50代のおっさんともあれば、もう世の中のほぼ全てを知り尽くし達観、僕たちが迷ったらなんでも指南してくれるんじゃない? と憧憬の念で眺めていたものだが、ほんと、そんな少年少女がいたらごめんね、て謝って回りたいくらいに情けない自分。

というわけで、そういう、いたいけな少年少女に隠れてこっそりお勉強したい年頃なので、ソクラテスに言われるまでもなく、自分には、不知が多々あることは分かっています、はい、こんな感じ。

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それを、こうやって、知の領域を増やさなきゃな、て思っていた。

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そもそも世界は広い

ところが、冒頭記したように、どうも、知らなさすぎることが多すぎる。
そこでようやく気づいたのだが、どうも、知る、賢くなる、ということは、こういう、比率の問題出はないようだ。

むしろ、こういうことではないか。

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つまり、自分には知らないことが多いけど、知ってるか知らないか、そういう区分をする以前の未踏の地があることを理解し、まずは、その未踏の地を拡大していくことではないか。

さらに、理想は、その上で、知の領域、割合を拡大していくこと。

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知らないことがあまりにも多い、駅前の書店に積まれていない書物・デジタル化されていない書籍の洪水に呆然とする、自分の両親の生き様すら知らない、隣人が何する人ぞも把握せず、Expatとして暮らしながらその地の歴史も文化もタブーも流行り言葉も知らない…

それでもなお、いや、だからこそ、これから学ぶことの無限の荒野を目の前にして、ワクワクを禁じ得ない。

かつて、50を過ぎたら、ほぼ人生詰んだ、と信じて疑わなかった若者時分が信じられない程の期待感。

案外、歳をとるのも悪くないのかも。

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