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デカい看板は目立つが重い。

ちゃんたさんの、逆学歴コンプレックスについてのnoteを見て居ても立っても居られなくなったので筆を執ります。
ちゃんたさんだけでなく、noteの東大不幸論者の多くはこういった逆高学歴コンプレックスを抱えた人だから、もしくはその人を見ているから、なんだろうな、と。
そんな人たちに向けたnoteを。


「デカい看板は目立つが重い。」
これは僕が開成を卒業する際に恩師に言われた言葉です。
開成というそこそこネームバリューのある高校出身者は、大抵東大や医学部とまたネームバリューのある大学へと進学する。
目立つからこそプレッシャーは大きいんですよね。
周囲からの期待だったり、「東大なのに」といった言葉はこの看板の重さを物語っているかと思います。

どうして東大に入学したのに辛いのか。
それは以前のnoteにも書きましたが、東大が「残酷なほど普通な学校」だからです。
「お勉強しかしてこなかった人たちの集まり」と思って入学する。
いざ蓋を開けてみると彼らは頭がいいだけの、至って普通の人間なんですよね。
自分より運動できる人もいるし、コミュ力あるやつもいるし、なんか起業してるやつもいる。
頭の良さなんかは当たり前のように皆頭いい。

これがつらい。
自分の存在意義が感じられなくなるんですよね。
それまでの中学や高校といった場所では、少なくとも頭がいいということは自分の存在を肯定してくれた。
頭いいポジションというのは心の安寧があった。

人間、生きるうえで大事なのって「誰かに必要とされる」ことなんですよ。
誰かが必要としてくれるから生きていられる。

それはテスト前に質問されるとか、誰かの目標になるとかそういう些細なのでいいんです。

勉強ができる+スポーツもできる、とか。
勉強ができる+ノリがいい、とか。
自分のクラスや校内での立ち位置に必ず入っていた「勉強ができる」
それが東大や、所謂高学歴と呼ばれる大学に入るとそのアイデンティティが一つ無くなる。
一つ無くなるだけならいいんですけど、自分の「完全上位互換」みたいなやつが出てくる。
これがまたしんどい。

高校で成績優秀スポーツ万能みたいなキャラでやってきたのに、大学でそんな奴がゴロゴロいる。
おまけに性格までいいと来た。
残酷なまでにどうしましょう状態。

大学に入ってから新たに形成できるコミュニティ。
そこで高校と変わらないポジションを取れる人は稀です。
進学校出身は意外とそういう経験があるから立ち回りがうまい。
自分も幸運にもそこの立ち回りはうまくできた。
(とはいえそういった経験は高校のときにしたので、早いか遅いかの問題。)

ただそういった経験がない人は、18や19といった成熟してきた年齢でアイデンティティを一つ取り上げられる。
どうすれば人から必要とされるか分からなくなる。
勉強やスポーツといった目に見える席はもう誰かに取られている。
この「お前の席もうねえから!」と言われている感覚が非常に辛い。
この辛さが高学歴不幸論の根幹にあると思います。

高校入学時、恩師に言われた言葉があります。
君たちはこれから性格の再編成の時期に入る、と。
それまで当たり前だと思ってたこと、常識だと思っていたことが一度崩され、また一から築いていく。
この再編成は痛く辛いが必ず成長させてくれる、と。
それを知っているか知らないかで大きく違ったなと今振り返って感じます。

人間って評価項目が幾つもあるんですよね。
分かりやすく五教科みたいに分れてない、数多の評価軸があって項目がある。
空席がないなら作っちゃえばいいんです。
周りを見てこういうところが俺優れてね?とか。
自分が勝てるまで無限に評価項目を増やす。
必勝法です。

そうやっていろんな評価軸とか項目が増えていった先に何が見えてくるか。皆、凸凹してんな。です。
僕はそうでした。
どんなに綺麗な五角形に見えたやつでも、全然汚い多角形になる。
そうすると少しだけ周りにも、そして自分にも寛容になれる。

人生に意味はない、あるのは欲だけ。
何度も引用してる喜劇王チャップリンの言葉ですね。

生きるのは生きたいから、だけでいい。
誰かに必要とされたいという欲も勿論大事。
ただそれ以上に、凸凹の自分を許し愛し、自分を自分で必要なんだと思うことが大事なんだと思います。


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