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芸術の“正しい”鑑賞法

テレビのカラオケバトルのような番組を観てると思うのだけれど、日本人は芸術における「正しさ」に囚われ過ぎているように思う。
点数という絶対評価は単純明快でわかりやすい。
点差はそのまま実力差の可視化として扱われる。
僅差での勝敗は盛り上がるし、大差での勝敗は勝者の実力を浮き彫りにする。

しかしこの“差”というのは何であるのか。
殊、カラオケバトルにおいてはそれは主に音程があっているかのピッチングに重点が置かれる。
テレビの画面上に音程バーを表示しているのも、そのズレを可視化させるためであろう。
音程が綺麗に取れていればすごいと評価し、音程がズレれば視聴者は落胆する。
(視聴者ではなく“視者”とでも言うべきか)
音楽とは音を楽しむものであり、本来楽譜の音程からのズレは些末なものであると僕は思う。

歌だけではなくピアノを含めた音楽全般に関してこの「楽譜至上主義」ともいえる楽譜が正しく演者はそれに完璧に従わなければならないという意識が強すぎる気がする。

ただこれは仕方のないことであると思う。
私たちには「どういう風に見ればいいのか」、「何を基準に見ればいいのか」がないのである。
その基準の不足を音程といったもので補ってもらっている。というのが現状である。

ではプロはどう観ているのか。
例えばピアニストについて。
ピアニストは過去自分が弾いたという経験、そして自分が聴いてきた無数の弾き方と照らし合わせて他の演者の演奏を判断しているのではないか。
つまり相対評価である。
または自分が再現できるかを考え、その自己再現可能性に応じて判断する。
ここにさらに自分の好みも加わる。理想の弾き方と言うべきか。
こう弾きたいというものに合致すれば「わかってるじゃん」もしくは「先を越された」という感情を抱くものなのかもしれない。

もっと卑近な例で言うと、ドラマの俳優を評価する時を考えるとわかりやすいか。
俳優の上手、下手を判断するのは他の俳優と比較して、というものが多いように思う。
自分も演者であればその上手下手の言語化がより容易なのであろう。
ここの目線がうまいとか、言い方が上手いとか。
それは自分の自己再現可能性等に照らし合わせていることになるが、多くは前者であろう。

芸術の鑑賞法はこの「相対評価」、「自己再現可能性」、「好み」に従えば良いのではないか。
美術館でも「さっきの部屋の絵の方が好きだったな」とか、「この絵俺なら描けそう」とか。
多分そういうの諸々を言語化する時間だと思う。
入り口はこの絵好き、だとしても、「何故好きなのか」、「どこが好きなのか」を延々と考える自己対話の時間。

そうなれればいいなと思い今日も今日とて、
「あとどれくらいこの絵の前にいればいいんだろう。」
そんなことが頭を占める。

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