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“私”を見てという儚い願い

この時代、属性ではなく「私」という個人を見てほしい。
そういった儚い願いが数多く見受けられる。
夫婦だったり性別だったりのジェンダーロールではなく、個人として見てほしい。とかね。
学歴関係なく見てほしい。とかも。
だけどそれって無理だよねって話。

似たような話を「性自認は浸透するのか」で書いたが、
人はカテゴライズすることで理解する。
名前も性別も年齢も職業も性格さえもすべてカテゴリーに分類される。
そしてその分類に所属する限り、その分類の人間として人は他人を扱う
その分類に求められる役割からは逃れられないのだ。

例えば名前。
仮に鈴木家という家に生まれたのであれば、鈴木家という分類に属する。
鈴木家の父親と母親の子供として、鈴木家の一員として他人は貴方を扱う。

性別だってそう。
やはり子供を産む能力の有無は大きい
いくら多様性多様性と謳っても、根底に存在する子供を産むことのできる性別とそうでない性別とで、期待される役割は大きく違うのだと感じる。
断っておくが、その役割に個人の自由が制限されるべきではない。
しかし殊、妊娠という局面においては、女性は”強制的に”その自由が制限されることは免れないし、子供を産むという役割から本当の意味で開放されるにはまだまだ時間がかかるだろう。

年齢も。
子供と成人と老人では求められる役割は異なる。
ニートや引きこもりおじさんが社会的に批判されるのはこの年齢に求められる役割から逸脱しているからに他ならない。
「成人式」なんていう”成人”を祝う式がある以上、この年齢に求められる役割というのは否定できない。

職業も同じで、教師には教えることが求められ、医師には治療が求められる。
教師に治療を求めることはない。
その職に求められる役割が存在するのだ。

性格だって同じだ。
優しい人には自分に優しくしてくれることを期待するし、厳しい人には厳しい言葉を期待する。
自分が当てはめた性格という役割に沿った行動を期待してしまうのだ。
その行為から逸脱すると「裏切られた」と人は感じる。

簡単な話、自分の友達を一人説明してみればいい。
属性を用いることなくその友人を語ることは不可能だ
そもそも語ることが無理だ。
個人を個人として扱うということは、言語から解放され、存在を存在として認識するという言葉を用いない感覚に近い非言語の世界なのだから。

それでもまだレッテルを貼られたくないと願うのであれば一度日本の外にでてみるといい。
多様性が「進んでる(笑)」海外に出たら嫌というほど日本人として、アジア人として認識される

個人として認識される。
これは人間としての在り方から逸脱する行為だと思う。
いくら願っても叶えられることはないし、他を個として認識することはまずない。
人の夢って儚いね。


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