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常に希望と絶望が隣り合わせだった彼女について

#31あんのこと

負の中に一筋も二筋も希望の光が見え、
見手が主人公”あん”を応援したくなる。
単なる重い社会問題映画ではないからが故に、逆に心にグッと刺さる。
そして見手は作者に常に、「ではどうしたらあんが救えたのだろうか」ということを問うているように感じる。

重い社会派映画に希望?と思う方もいるかもしれないので、今回
私が感じた希望から紹介しようと思う。

<助けを求めるということを知る>

再度薬に手を出してしまい多々羅に助けを求めるあん


杏はずっと、これが自分の人生だ。と仕方ないと思わんばかりに生きている。
助けを求めたところで、誰も救ってくれない。だから自分を救う方法は間違っているけれど、薬しかないと思っている。
しかし、そんな中、刑事に出会い、初めて“救われる”ということを知る。
それだけでなく、初めて“助けを求めること”も知った。
そして、”助けを求めると助けてくれる人がいること”も知った。
見手はこの時、やっと杏が負の世界から一歩抜け出したと感じたのではないだろうか。

<生きがいをもつということ>

老人ホームで働き始めるあん


この作品で一番感じたのが、生きていく中で“生きがい”がいかに重要かということ。
杏はは今の自分を変えるために、自分を見つめ直し、学ぶ楽しさを知り、働く楽しさを知り、自分を大切にするという大切さを知った。
今まで人に感謝されたり、何かをもらったり、助けてもらったり、分け合ったり、そんな人が当たり前に持っている権利を杏は、21歳で初めて知るのだ。

<虐待のスパイラル>

子供のために買い物に向かうあん


よく、虐待児は将来虐待をしてしまう、負のスパイラル現象が問題とされている。実際、それを匂わせるように、劇中で杏の母親は何かのトラウマのように娘のあんのことを何度も「ママ」と呼ぶ。
そして、娘の杏には幼い頃から暴力を振るい、13歳の頃に売春を強制する。
そんな中で、あんは虐待の負のスパイラルを止めた。虐待されていたかもしれない隣人の子供を預かり、世話をし、子育てをすることで杏は初めて愛を知る。
そして、愛するだけなく、弱いものを守らなければという意識も芽生える。
それは、必ずしも自分の産んだ子供でなくても、人は母性が芽生えるということも感じだ。



では、こんなにもたくさんの希望で溢れていた21歳が何故自死を選ばなければならなかったのか。

希望だけで終わらないのがこの映画のある意味見どころだ。
私は作者の問いに向き合おうと思う。

<正すだけで良いのか>
心に弱い部分を持っている人は、人の弱みに共感できるのではないか。
実際、人間として弱い部分がある多々羅は杏を救ったが、エリートで一見、社会的に成功者として捉えられる記者桐野は杏を救うことができなかった。
倫理的に考えると、多々羅はもちろん正しくなく、それを告発した桐野の行動は正しい。しかし、社会の構造はそれで良いのだろうか。臭いものに蓋をするように、悪い部分のみ取り上げ、良い部分を評価せず、関わりたくないものは見ないようにする。そんな社会構造では、いつまでも弱者は救われない。もし、記者が刑事を告発するのであれば、その代わりに、自分が刑事の代わりになっていたら、あるいは、代わりを用意していれば、杏を救うことができたのはないだろうか。
桐野自身も恐らく自分が正しかったのかーという疑問を抱き後に多々羅に会いにいったのではないだろうか。
これは杏のような社会的弱者の方に対し、何の解決策にもなっていないのだけれども、この映画を見たことで考えるきっかけにはなった

最後に、
実話をもとに作られた話ですが、実際メディアはこの問題をどう報道し、私たちはそれをどう捉えたのだろうか。
元風俗嬢薬物で自殺。という上部で彼女を判断していなかっただろうか。
今後このような社会の犠牲者を産まないためにも、常に事実に目を背けず、自分ができることを考えられる人でありたい。

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