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歴史を学ぶとは~「風雲児たち」林子平の恩人説と廃仏毀釈から思った事~

先年お亡くなりになった漫画家・みなもと太郎氏は、ボクにとっては『風雲児たち』の作者としての印象が一番強くありまし。

基本、ギャクタッチですが、関ケ原の戦いから始まり、蘭学事始め解体新書が出来るまでや蛮社の獄を丁寧に描き、その分、いつになったら幕末が始まるんですか~(T〇T)、とやきもきさせられ、掲載雑誌が変わったりしながらもほぼ40年。幕末編だけでも20年近くを連載されていました。

それでもまだ幕末の途中というか、伊藤博文の塙忠宝暗殺編で連載は止まっていて、まだまだこれからということろで、もうこの歴史コミックの続きが読めないと思うと、本当に残念です。

ボク的には、歴史小説なら司馬遼太郎氏の諸作、歴史コミックならみなもと太郎氏の『風雲児たち』が双璧の推しです。

ただひとつ、気を付けないといけないのは司馬遼太郎氏は歴史小説、『風雲児たち』は歴史(ギャグベースの)コミックだということです。

つまり歴史の研究成果の発表物ではなく、あくまでもエンターテイメント(娯楽)に徹した作品だということです。

かって、司馬遼太郎氏は読者から、作中の登場人物について、「本当にこういうことを言ったのですか?」と質問されたことについて、『作家として、このような質問に答える必要はない』といったような意味のことを書いていたと思います。

史実をベースにした創作であり、歴史学者の研究成果物ではないので、質問自体が(言い方が悪いですが)筋が違うと思うのです。

大河ドラマを楽しむのと同じベースで楽しむものだと思うのです。

歴史学者の磯田道史氏が、司馬遼太郎氏を評価して、山のような資料を集め、そこから取捨選択をする凄さを讃えていたエッセイがあったように思います。ここでいう取捨選択とは、事実であってもそれが小説として面白くない、または自分の描く主題に合わないものは省くという大胆さだとボクは理解しています。

先日の投稿で、坂本龍馬が佐久間象山の私塾『象山書院』に入塾したということをさらっと書きましたが、これは司馬氏の『竜馬がゆく』には描かれていません。つまり捨てられた情報です。
その理由はわかりませんが、ボクなりに考えると、竜馬が世界の広さに目を向け、封建体制からの脱却を目指すのは勝海舟と出会い、それを教えてもらう、というドラマチックな展開にするためには、それ以前に勝海舟よりも世界を知っている佐久間象山に入門して兵学や蘭学を学んでいたという事実は、そぐわないからではないかと思うのです。

さて、タイトルにある『風雲児たち』ですが、こちらも同様に、コミックとしてドラマの面白さを出すためだと思いますが(もしくはもとにした資料が適切でなかったか)、まれに「?」と思う所があったりします。
 
コミックのまるまる数ページを引用はできないので、ざっと略して書くことをご了承ください。

例えば、林子平恩人説
ペリーと徳川幕府が日米和親条約を締結する際に、ペリーが小笠原諸島をアメリカ領とすると主張するシーンが『風雲児たち』にあります。
あなたがたは小笠原諸島が日本領だと言い張るが、それを明文化した文書を国際的社会に示したことがあるのか?と問うペリーに対し、幕府側が「ある!」と言い返し、かって幕府が弾圧した林子平の『三国通覧図説』のフランス語版(シーボルトが紹介したものらしいです)を見せ、ペリーを黙らせる(というか、ペリーもそれを知っていて、チェッというオチをつけていますが)というエピソードがあります。

なかなか痛快で面白いエピソードですが、そもそもこれは史実ではないと思われます。
(史実ではない、というのはペリーが小笠原諸島をアメリカ領と主張したことです。そう主張したという記録が日本側にもアメリカ側にも存在しないという事実からです)
 
また小笠原諸島については明治9年に日本が領土であると主張し世界に認められているというタイムラグを考えれば、このエピソードは参考にした資料が適切ではなかったのではないかと思います。
もっともみなもと太郎氏はそれを知ったうえで、コミック的な面白さと弾圧した人物から日本が結果的に救われたという流れのエピソードを描きたかったのかもしれません。
 
また廃仏毀釈について。こちらは時代が明治になってすぐにあった社会的現象として歴史の授業でさらりと教えてもらいますが、実は廃仏毀釈は江戸時代からすでにあったことです。

なぜそんなことが起きたのかというといくつかの流れがあり、ボクのようなものが説明するよりも、専門書を読んだ方が間違いないので省かせてもらいます。
(ただ、アマゾンなどで廃仏毀釈で検索しても明治のものしか出てこないと思います)
みなもと太郎氏は、『風雲児たち 幕末編第1巻』で、水戸斉昭が隠居、右腕と言われた藤田東湖が蟄居の沙汰を幕府から言い渡された原因を、水戸学の思想に従い、水戸斉昭・藤田東湖が廃仏毀釈を行ったことが原因であるかのように描かれています。
たしかに水戸斉昭・藤田東湖が廃仏毀釈を行ったことは事実で、吉田松陰が水戸に行ったとき、寺の鐘の音が聞こえないので理由を聞くと、鐘は潰して鉄砲の弾丸を作っていると聞かされたという話もあります。
 
しかし、水戸藩の廃仏毀釈のみを、水戸斉昭・藤田東湖の処罰の原因のすべてと断言するのは、少々無理があると思うのです。
(水戸斉昭は自著の中で『釈迦などという男は汚らわしき異国人である』と言ってると「風雲児たち」で描かれていますが、その書名が書かれてないので真偽はわかりません)
 
引用元が不明な場合は、あくまでもフィクションとしてみたほうが無難だと思います。

もちろん、ボクは水戸学を肯定する立場ではありません。
(そもそも水戸学についてほとんど上っ面というかテレビの番組でちょっと聞いた程度ですから)
 
しかし、思うのです。学ぶとは、本を読むことだけでなく、そこからさらに詳しく知ろうという能動的な行為にこそ本質があるのではないだろうかと。
 
本当にそうなのだろうかと思う気持ち。もっと事実を知りたいと欲する気持ち、これが学ぶ、ということの本質ではないかと思うのです。
(歴史は勝った者がいかようにもあとから作れるという側面もあり、資料もすべてがあるわけでもないですが)
  
そういう意味では、学校の授業で先生のいう事を鵜呑みにしていたボクは、学ぶということから一番遠くにいる人間だった(今も大して変わらない)なぁと、今更ながら反省するばかりです^^;。







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