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どうか君ともう一度、同じ世界の上で。

あらすじ

三年E組に居たはずの少女、佐伯理玖。語り手である青年には確かに理玖の記憶があるのに、何故か彼女は、高校卒業後に青年以外の記憶から忽然と消えてしまう。クラスで浮いた存在だった青年にとって、分け隔てなく接してくれる理玖は憧れの少女だった。それだけに青年は、消えてしまった理玖のことを追い続ける。結果、青年は理玖がタイムリープしたのではと推測し、その仮説を、心を許した幼馴染の一人に、酒の席で打ち明けたのだ。同級生の彼も結局、理玖のことを知っている様子は無い。青年は「理玖と再会できたとしても恥ずかしくない俺になりたい」と宣言し、そうして二人の飲み会はお開きになった—が、この話はそこでは終わらない。



どうか君ともう一度、同じ世界の上で。


いや、きっと酔っているからこんなことを話せるんだよ。

お前とさ、こうして約束をとりつけてお酒が吞める日が来るなんて—こういうの、感慨深いって言うんだな。
…いやいやいや、責めるつもりなんてないよ。
あの頃—高校時代なんてさ、狭い狭い閉鎖社会じゃない?、そういう中で幼馴染のお前が周りの雰囲気で俺を無視していたこと、俺は仕方のないことだったって思ってる。
そんなお前と卒業して進学で離れたはずが、ばったり都会オオミヤの駅で再会できたんだ。
俺は、こうしてまたお前と話せるようになったこと、本当に嬉しく思ってるんだよ。

お前さ、佐伯理玖さえきりくって女子、覚えてる?

佐伯とは俺もお前も三年E組で同じクラスだった。
…ああ、覚えてない?
そうなんじゃないかなって、なんとなく解ってた。
俺もさ、ぼっち環境だったから強がって卒アルも買ってないんだわ。
…だからさ、責めるつもりなんてないってば。
とにかく、俺も写真を見せるとかして「佐伯の実在」をお前に証明することができないんだって、それを言いたかっただけ。

…何?なんかオオギョウシイって?
お前さ、昔っからそうだったよな。
理系の割に難しい言葉をよく知ってた。
なんだっけ、図書部の部長とかとも仲良かったもんな。
でもあの頃って図書部に入るよりもバスケ部だバレー部だに入る方が、クラスのカーストの上の方に居られたもんな。
お前がそうやって本来のお前らしさを捻じ曲げてでもして頑張ってクラスに馴染もうとしてたこと、俺はちゃんと知ってるつもりだよ。

…そうそう、佐伯だよ佐伯。
お前も覚えてないって言うから説明するけどさ、佐伯は—俺の語彙力の無さを以て表現するならば、クールビューティーってやつかなきっと。
そう、静かな美人だった。
お前らクラスの一軍グループからしたら、サッカー部のマネージャーやってたあのコとかC組の読者モデルやってたコとかさ、そういう美人がもてはやされてたんだろうけど。
佐伯はごくごく少数の友達とつるんでいて、けして目立とうとしない、でも確か勉強はすごくできて、部活は入っていなかったんだっけな。
黒い髪は—あれだ、昔の映画のヒロインがやってたみたいなおかっぱで、細くって、日焼けなんて知らない様な真っ白な顔にバランス良くそばかすが広がっててさ…なんていうんだろ、ちょっと作り物感もあるような美人だった。

ん?、ああそうだな、俺はきっと佐伯に惚れてた。

数学のおっかねー先生に当てられてもまず確実に正答できる佐伯は、あの頃の教師陣からは一目置かれていた気がする。
だから難関大を受けるんだろうなって思っていたら、難関大は難関大なんだけど、まさかの北海道大学を受けるって風の噂に聞いてさ。
なんだよ北海道まで行っちゃうのかよ、ワンチャン卒業後に仲良くなれないかななんて期待してた俺は埼玉じもとからは出られない家庭環境だったし、すごく残念に思ったのを覚えてる。
北大って獣医学部があるよな。
「亡くなったミーコを長生きさせたかったから」って言葉を佐伯が言ってるの、ちらっと聞いたことがあるんだ。
ミーコって、猫の名前っぽくない?
それを叶える為に北海道に行っちゃったのかな…ああそうだ、ちゃんと北大に受かったって噂も聞いたんだよ。
…何?、俺、佐伯に詳しすぎ?うるせえよ。

あの頃はさ、俺、生きているのがほんと辛かったんだ。

そういう毎日の中で俺は、佐伯っていうなんだか特別に見える存在を目で追っている時間だけが、とても輝いて感じられた。

佐伯は俺にも平等だった。
…だから、お前を責めるつもりは無いってば。
しょうがないよ、優秀だったはずの弟が事件を起こしたヤツになんて、上手に触れられる人間の方が少ないよ。
将来有望ってあれだけ騒がれて、一時はテレビにも出ていたアイツが、試合中のケガで選手生命を絶たれたそのタイミングで俺は高校に入学した。
「弟さん、残念だったな」って無神経にも言ってきた体育教師にはマジほんと、一発くれてやろうかと思ったよ。
でも実際に「一発くれちゃった」のはアイツの方だった。
中学からの帰り道を待ち伏せしてまで「今のお気持ちを一言」なーんて言ってきた報道の記者を、アイツはボッコボコにしてしまった。
その罪を世間に大きく報じられてしまうほどに、ボッコボコにさ。

そうして俺はクラスで、ほぼほぼ「空気」になった。
俺に触れることは別に、禁じられていたわけじゃないのは知ってる。
でも犯罪者の家族と上手い距離感で付き合っていくってのは—その罪にどんな理由があったところで結局、凄く難しい、特に高校生になんて難しすぎることだよな。
教師の一人が俺とクラスメイトについてどうにかしようと企んだこともあったみたいだけど、それは結局俺の傷に塩を塗るだけだって気づいたみたいで、早い段階で辞めてくれたよ。

佐伯とかその周辺の女子とか、ごくごく僅かな「目立たない衆」だけが、俺と普通に接してくれていた。
修学旅行にも行かないって伝えたら、佐伯はさ、なんと俺にお土産を買ってきてくれたんだよ。
残念なのが…そのお土産、食い物だったこと。
原爆ドームの見学の後に、ホテルのお土産屋で買ってきてくれたっていう紅葉まんじゅうだったんだ。
勿論嬉しかったよ?、でも俺、きれいに完食して包み紙も捨てちゃってさ。
もしもあのお土産がキーホルダーとかだったなら—これ佐伯に貰ったんだよって、お前にも見せてやれたのになって…。

…だから!、お前は俺に罪悪感なんて持たなくていいんだってば。
俺がしたいのはあくまで佐伯の話なんだよ。
俺はお前に怒ったり恨みを持ったりなんかしちゃあいない。
じゃなければどうして今、こうして一緒に酒が呑める?
そもそもこないだの成人の日の集まりだって、俺は行くつもりなんか無かったのに、お前は俺を誘ってくれた。
「うちの自治体は二十歳での成人式スタイルを崩してないし、あれからもう何年も経ったんだしさ」って、お前は言ってくれたよな。
お前のおかげか、地元の奴らが昔みたいに俺を受け入れてくれて、一緒に写真まで撮ったりしてくれた。
「お前の母さんだってお前の成人の記念写真が見たいだろ、」って—そう言ってくれたお前の気遣いに、俺、本当に感謝してる。
だからこそ俺は、お前にだけは佐伯の話がしたいんだ。
お前なら信じてくれるって、俺は—俺はそう、思ってるから。

俺さ、佐伯とは仲が良かったはずの大川おおかわと、たまたま進学先が一緒になったんだ。
お前にはもう、県北の専門学校だって話してあったよな。
俺は…弟のことがあったからリハビリの専門家になりたくって、そういう学校を選んだんだ。
そうしたら大川も、医大の作業療法士科に落ちたからって言って入学してきて―あいつ一言余計なんだよな、悪いヤツじゃ無いんだけど。
大川は覚えてる?、そう、ちょっと地味なヤツだったよな。
クラスの静かなグループの中では勝気な方っていうか、ああいう中ではリーダーっぽい立ち位置のヤツ。
あいつもさ、佐伯と仲が良かったからか、あの頃でも俺と普通に話してくれていたんだよ。
そんな大川と同じ学校になったもんだから、俺はつい佐伯のことを話題に出したんだ。

そうしたらさ―変なんだ。
「…佐伯理玖?誰だっけ、それ。」
大川はまず初めにそう言った。
俺は「またまたまた、何言っちゃってるの?」と囃したんだけど、でもしだいに俺は、大川が真剣にその脳みその中を洗って記憶を辿って―佐伯理玖という存在に辿り着けないでいることに、ゾワって…鳥肌が立った。

結論から言うと、大川は毎日佐伯と一緒に居たはずなのに、佐伯のことを「知らなかった」んだ。

けどさ、不思議と引っかかりはあるみたいで。
例えば三年生当時、クラスの女子は理系だったからか人数が少なめで、十六人しかいなかった。
だから修学旅行のグループも、四人ずつで組んで人数的に割り切れていたはずなんだ。
で、大川には「他のグループは四人編成だった」という記憶はあるのに「自分のグループだけは三人編成だった」という、まるで佐伯だけが消失している様な、そんな妙な記憶になっちゃってるの。
…お?、お前も今「あれ?」って思ったと見たぞ。
お前も今ふっと、クラスの一軍女子グループが四人で固まって班を作っていた記憶に辿り着いたのか?
修学旅行を休むなんていうイレギュラーは、今の不景気な最中じだいならまだしも、俺たちの頃にはまずいなかったよな―俺以外は。
だからこの話をしていた時、その人数の矛盾に、大川は本気で不思議がっていた。
きっとさ、少しずつ、その他にも記憶のほころびが幾つか見つかったんだろうね。
大川の中から佐伯が消えてしまったせいで生まれて、修正がうまくされなかった「ほころび」の部分が。

大川と佐伯の話をして、俺は—なんなんだこの、俺と大川の記憶の矛盾は、って、すっかり怖くなった。
だっておかしいだろう?、クラスの女子の記憶がすっかりまるごと消えるだなんて、まして大川は佐伯の友達だったんだぜ。
だから俺は「もしかしたら俺がおかしいのか、佐伯なんていなかったんじゃないのか?」って考えて、俺は脳の病気か何かなのかって恐ろしくなって、もうさ、震えが止まらなくなった。

でも、そうだとしても何なんだ?、この佐伯に対しての鮮明すぎる記憶は。
「佐伯理玖」なんて名前のその感じの一文字ずつだって、俺の無意識がチョイスして作り上げたにしては—なんかさ、もっと簡単に思いつきそうな名前だってあるのにさ、鈴木とか佐藤とか苗字ランキング上位の名前だってあるじゃん。
それに、亡くしたミーコの為に獣医学部を目指したっていうストーリーや、俺の為に買ってきてくれた紅葉まんじゅうの、あのあんこの味とかさ―そんなことまで俺の脳が病気で信じさせてたって言うのか?
…さすがに俺には信じられなかった、佐伯の存在が幻だったなんてさ。

…六時間目の数学の授業が終わった後、ちょうど窓の向こうに虹が出ていてさ。
窓際の、まとめられたカーテンのすぐ側の席に座っていた佐伯は、教科書やノートを両手で持って机の板の上にトントンってしながら、ぼんやりとその虹を見ていたんだ。
衣替えの時期で久しぶりに着ていたはずの制服ポロシャツの白い襟から、負けじと白い佐伯の首が覗いていた。
その首筋に、おかっぱの黒い毛先が当たって揺れているのが「きれいだな」って、俺は見惚れちゃったんだよ、つい。

お前たちが取り合っているマネージャーのあのコなんか、俺の視界には入らなかった。
同級生にモテようとか、そういう空気をいっさい纏わずに―なんていうか、佐伯はあくまでこの教室を「通過点」としか思っていない様な、少なくとも俺にはそんな風に見えていた。
一度さ、休み時間に佐伯が何か聴いていたんだけど、丁度イヤホンを外したタイミングだったから―俺は思い切って「何、聴いてるの?」って尋ねたことがあったんだ。
佐伯はなにやらすごく古そうな人たちの名前を答えて「私が生まれるずっと前に出た曲だから」って答えて、だからってそれがどういう理由を為すのかまでは、当時の俺もちょっと察しがつかなかったんだけどさ。
でも、佐伯こいつは流行りの曲とか聴かないんだなって、そう思ったのをよく覚えてるよ。

俺の中でそうやって、確かに、佐伯への憧れは膨らんでいったはずなんだ。
三年E組で同じクラスになったあの一年間、ゆっくりと時間をかけて。

佐伯はときがわ町から通ってるって聞いた覚えがあってさ。
大川との件があった後、俺は—明確な行き先も結局無いってのにさ、土曜日の昼下がりに八高線に乗って、ときがわ町まで行ってみたことがある。
当たり前だけど、結局何にもわからなかった。
…ストーカー紛いだよな、こんな行動。
俺自身も気持ち悪いな俺、って、ちゃんと自認があるよ。
でもさ、行ってみたらもしかしたらたまたま佐伯に再会したりして—佐伯理玖が「いない」なんてのは、大川の方こそに起こった脳の異変であって、俺の中の佐伯の実在が証明されるんじゃないかって、俺はどうしても淡い期待を抱いちゃったんだよ。

明覚みょうかくっていう名前の小さな駅が、ときがわ町の持ってる唯一の鉄道駅でさ。
鉄道の駅っていうより道の駅じみた雰囲気で、建物はきれいだけれど本当、都会と比べたらえらく雰囲気の違うその駅の前に佇んで―俺は只ぼんやりと、佐伯のことを想った。
佐伯もここを毎朝毎晩使っていたのかな、なんて考えて—いや、やっぱり大川の方がおかしいんだ、佐伯は確実に「いた」はずだ—そんな実感が俺の中に溢れてきて「俺、何を疑ってたんだろ」って急に馬鹿らしくなって、次に来た列車に乗ってソッコー帰ったよ。
…とはいえ都会みたいにバンバン次のが来るんじゃあ無いから、何十分も次の便を待ったんだけどさ…だって埼玉にありながら無人駅なんだよ?、すげえだろ、ノスタルジーに浸れるからお前も行ってみろよ。
その間に普通にときがわ町を観光したりして、なんていうか結局、俺は只単に充実した土曜日を過ごしてしまったってわけ。

ところが、だ。
それから少し経ったある日、大川がこんなことを言ってきた。

「私さ、気になっちゃって高校の友達みんなに、そのサエキリクちゃんのことを訊いてみたの。
そしたらやっぱり、だーれも知らないの。
でも、なんやかんや私みたいにみんな、ちょっと引っかかるところがあるっていうか…ほらその、修学旅行の班のこととかさ。
でもね、みんな引っかかるには引っかかるけど、まあきっと勘違いだよね、みたいに自分を納得させて終わっちゃうんだ。
…いや、私も気になってるんだよ?
とはいえさあ、私の中にははっきりとしたサエキリクちゃんの記憶があるわけじゃあ無いんだし、私自身も結局みんなみたいに自分を納得させるしか無いっていうか、さー。」

俺たちの担任だったあの先生は、運悪く、俺たちの卒業と同時に遠くへ転勤してしまっている。
ならいっそ副担任なり教科担任なりに佐伯について訊いてみようかとも思ったけど、辞めておいたよ。
きっと結果は同じで、みんなサエキリクなんて知らないって答えるんだろうよ。
いい加減に俺は覚悟を決めることにしたんだ。
佐伯理玖の記憶はきっと、俺にしか残っていないのだ—ってね。

…ここまで話してもやっぱり、お前の中にも佐伯の記憶は無いんだろ?
だよな、解ってたよ。
でもさ、きっとお前は信じてくれるだろ?
佐伯は確かに居たんだよ、俺たちと同じ三年E組に、クラスメイトとして。

それから俺は、インターネットのありとあらゆる場所から情報を集めた。
…どこって?、お前はあんまり見ないかも知れないけどさ、人っていろんな掲示板にいろんな体験談を書きこんでるものなんだよ。
そうしたらさ、まあ…ネット上の作り話かも知れないけど、稀に見つかるんだよ—佐伯みたいに「居たはずの人がいなくなった」っていう、そういう話がさ。
傾向として、だいたいのストーリーテラーの中には、その人の記憶が残っているものなんだ。
ときどきストーリーテラーの周囲のごく一部の人たちの中にも、その消えたはずの存在に関して記憶が残っていたりする。
でも大概、ストーリーテラーを取り巻く大多数の人たちの中からは、その存在はやはりまるっと消えてしまっていて―なんならその家族構成なんかも、家族ごと消えていたり、別の人と家族を構築していたり、とにかくその「消え方」はさまざまだ。

佐伯には、どんな家族が居たことになっているんだろう。
残念だけど俺は、そういった情報を持ち合わせていなかった。
かろうじて地元ときがわのことを知っていたけれど、さすがにときがわの佐伯姓を当たったところで、肝心の「佐伯の実在」の証拠が俺の言質しか無いんじゃあどうしようもない。
こんな何も持っていない状況で下手に俺が動いても、結局俺の脳に何かがあったんだって、周りに心配されて終わりなだけだ。

でもさ―いろいろと調べていてわかったことだけれど。
「脳」ってヤツは本当に、未知なる存在なんだな。
人間はその脳の内三十パーセント程度しか使っていない、みたいな有名な言葉があるけど…もしそれが本当だとしたら、残りの部分を使える様になったならさ、人間ってどんな特殊能力が身に着くんだろうって考えると、ワクワクしてこないか?
それに、いわゆる幻覚とか幻聴って、脳が錯覚させて実際に起きている出来事なんだと信じ込ませている事象なんだろうけど、そもそも脳の力で「無いはずのもの」が「ある」様になるってさ、すげえと思わない?
…だとしたらさ、こうも考えられない?

人間の脳って—「あるはずのもの」を「無い」ことにも変えられるんじゃあないかって…。

ここからはあくまで、俺の推測、仮説、ね。

佐伯はもしかすると、タイムリーパーなんじゃないかって思ってさ。

…ちょっとさー、お前、そこで引くなよ。
いいじゃん、今日は呑み会なんだよ。
酒が入ってるんだよ、酒が。
だからちょっと夢みたいな話もさせてくれよ。
酔いが醒めたら「ああなんかあいつ変なこと言ってたけど酔ってたんだな、」って納得してくれりゃあいいんだからさ。

で、そのタイムリープのことなんだけど。
お前、タイムリープってどういう意味か解る?
…お、よく知ってんじゃん。
そう、過去とか未来に跳んじゃうんだよ。
体ごと跳んじゃうのはタイムトラベルって呼ばれてるみたいだけど、タイムリープってのは意識だけが過去や未来に跳んじゃうことを主に指すみたいだな。
…まあな、そりゃそうだよ、そんなこと、信じられるわけが無い。
そんなことがもしも可能ならば、もっと世界の秩序が大々的に乱されているはずだもんな。

でもな、ネットという深海をとにかく深く探索していくとだな。
案外その「タイムリープ」に関して、討論がなされているんだわ。
明晰夢っていう、夢の中で自分の好き勝手して楽しむ方法を使うんだとか、いわゆる幽体離脱みたいなことを使うんだとか—世の中にはさ、そういったオカルト的な術を試行錯誤して得て、実際に夢の中で亡くなった家族と再会したり、幽体…いや「体外離脱」って呼ばれてるのかな正しくは—とにかくその「離脱」する方法で、宇宙まで観てきたって人までいる。

俺もさ、理系の端くれだから、そういう現象についてもそのまま信じる前に一旦「これこれこういうことかな、」みたいな理由づけをする癖をつけているんだけど。
きっとさ、脳が見せている現象なんだよな。
脳には恐らく、その持ち主の理想通りの世界を映画みたいに「見せる」機能があるんだろう。
それは五感すべてを支配し、かなり現実世界に近い感覚を以て、多くの場合は睡眠時に「夢」という形で上映されているんだと俺は思っている。
体から魂が抜けている!体外離脱だ!…なんていうのも、結局はそういう夢なんじゃないかって説も実際にあってね。
体外離脱をしているという夢が更に発展して、宇宙をも観てきたという夢になるのだ—っていうのが、俺の持論。
まあ少なくとも「夢を操るスキル」というのは、いろいろ試していく内に誰しも身に着けられる技術なんじゃないかと思うよ。
ああ勿論、そのスキルを得る為の議論だって、ネット上で幾らでも成されている。
興味があるならお前も一度、検索してごらんよ。

で、だ。
その「夢を操るスキル」を利用して、自分が戻りたい過去の夢を見ることで、タイムリープができるんじゃないかって説がね…あったりするんだわ。

なんでも、その夢の中に統合されちまえばいいんだと。
過去の夢の中に、今の自分を溶け込ませるんだ。
そしてそのまま、夢の中であるはずの過去は、今の自分とひとつになる。
その状態だとあくまでも舞台は過去、主人公は自分だ。
つまり、過去へのタイムリープが可能、というわけだ。

統合する方法?
そこが「現実」だと信じ込めばいいとか、いろいろ言われているな。
でもその統合こそが難しいみたいでね。
夢っていうのはとてもデリケートで、ちょっと興奮しただけであっさり醒めちゃうんだよ。
好きなコとイチャつく夢を見ようなんざ考えて、失敗する人たちの課題がそれなんだってさ。
いかにして自然に過去と溶け込むか―それこそが、脳内で作り上げた宇宙を観に行くことより、もっと難しいんだって。
まあそうか、だって失ったはずの時間を超えるんだからな。

お前、俺がさっき話したこと、覚えてるか?
佐伯は何の為に、北海道大学の獣医学部を目指したんだっけ?
…そう、「亡くなったミーコを長生きさせたかったから」だ。
俺の記憶違いで無ければ、佐伯は確かに「亡くなったミーコ」を「長生きさせたかったから」、獣医学部に進んだ。
でも、この言葉ってなんだか違和感を持たないか?
「亡くなったミーコ」の代わりに、他の猫とかを長生き「させたい」から獣医を目指す、っていう意味で使ったのかも知れない。
ただし、もしもここで佐伯をタイムリーパーだと仮定するならば。
あの当時、佐伯の言うミーコっていう動物ペットは—まだ、亡くなってなんかいなかったんじゃないかな。

いろいろと、説明がつくんだ。
佐伯はタイムリープする以前の世界で、既にミーコを亡くしていた。
そして何らかの方法でタイムリープし、ミーコを救う為に獣医になる選択をしたんだ。
人生も二周目を迎えていれば、勉強だって前よりは簡単に感じるだろう。
だから勉強もよくできて、北大にも合格した。

あの、イヤホンで聴いていた音楽についても—これから納得がいく。
あいつは「私が生まれるずっと前に出た曲だから」聴いているんだと、俺に教えてくれた。
…わかるか?
「俺たちが生まれるずっと前に出た曲」っていうのは恐らく、「佐伯がタイムリープする以前の世界にも存在していた曲」なんじゃないかな。
佐伯がタイムリープしたことで、佐伯の送る未来は少なくとも「獣医学部へ進む佐伯」のいる世界へと変化したのは確実だ。
その結果、佐伯の―というか俺たちの居るこの現実世界では、佐伯が以前過ごした世界と、若干のズレが生まれたんだと思う。
「獣医学部へ進む佐伯」という未来は同時に、「佐伯が合格した分、不合格になった誰か」も存在する未来になる。
そういうズレによって、もしかすると音楽のヒットチャートなんかにも、バタフライエフェクト的な影響が起きて—あ、バタフライエフェクトって、お前わかるか?
蝶の羽ばたき程度の影響が、すげえ遠くで大きな風になるかも知れない…みたいな意味の言葉だよ。
つまりさ、タイムリープをした佐伯の一挙一動が起こす影響が、世界にとってはたとえ蝶の羽ばたき程のものだったとしてもだ。
この世界に本来はいないはずの「獣医学部へ進む佐伯」が存在してしまっている以上、音楽のヒットチャートなんかにも、佐伯が以前過ごした世界とは違いが出てくるんじゃないのかなって…俺は思うんだよ。

今俺たちが居る世界に来て、佐伯の目に映っていたのは、自分の知っている世界では流行らなかった曲がヘビロテされている状況だったのかも知れないな。
だから佐伯は「変わらないもの」を好んで聴いたのかな、なんて俺は考えている。
なんやかんや寂しかったのかも知れないぜ、だって自分だけが人生をもう一回やり直すって、すげえ孤独な戦いにも思わねえ?
もしも大きな災害が起こることを予見していたって、さすがに大災害レベルじゃあ、自力じゃどうにも立ち向かう術が限られてるじゃん。
そうやって誰かの命を救えずに無力さを感じることも、あいつにはあったのかも知れないな―なんて考えちゃうんだよね。

それに—さ、あいつはこの世界で本当に、ミーコを助けられたのかな?

お前、さっき俺がしたこの話のことも覚えてるか?
これまで存在していたはずのだれかがいなくなったとして、その周囲の大半の人たちの記憶からも、居なくなった人についての記憶が失われている—なんていうネットの書き込みのことなんだけどさ。

佐伯ってさ、タイムリープして、またタイムリープしていったんじゃないかな。
…ん?、だからさ、佐伯はタイムリープして今俺たちのいるこの世界に来た。
そして獣医学部へ進んだけれど、もしかするとミーコを救うのに間に合わなくって…更にどうにかする為に佐伯は、もう一度過去へとタイムリープを重ねたんじゃないのか?
だからこの世界からは、佐伯という存在が消えてしまった。
ただ、何の因果か俺の中にだけは…佐伯理玖の記憶が、残ったままになっている。

まあこれも仮説だけどさ、きっと俺が同じクラスの誰よりも、佐伯を特別視してたからかも知れないな…俺の中に、佐伯が残っている理由わけ、は、さ。

あの頃、俺ん家は本当にズタボロだった。
弟は然るべき場所に行っていたし、父親は酒浸り、母親はずっと病院に通っていた。
よくもまあそれぞれあの頃を生き延びられたと思ってるし、それに今はそこそこ日常っぽさを取り戻してるんだ。
父さんは伯父さんの工場で働かせてもらってるし、母親も趣味のヨガなんて楽しめる程に回復してる。
弟だって、今はもう遠くで仕事に就いているよ。
…でも、回復はできても傷痕は残っている。
いや、ほんとお前が謝ることじゃあないんだよ。

…いや、俺、本当は八つ当たりしたかったのかも知れない、お前に。
ごめん、認めるわ。
じゃなければどうして俺、こうも…お前に、恨みがましくこんな話しているんだろうってさ。

弟だって、深い傷を負っていた。
まだ中学生だったのに将来がある程度内定してしまっていて、その癖ケガで一気に将来を断たれた。
そんなアイツに容赦なく塩を塗り込みに来る悪い大人を、あいつはぶん殴ってしまった—悪いことだよ、勿論、罪だ。
でも、アイツだって被害者だったと思うんだよ—いろんなものからの。

俺をどう扱っていいか判らない奴らの中で、俺は生活していくしかなかった。
聞こえるようにヒソヒソ言われることもあった。
…お前らみたいに、俺を空気として扱ってやり過ごそうとする奴らも多かった。
そんな中で佐伯はいつも、俺に対し「普通」でいてくれた。
シャープペンシルの芯が足りなくなれば「分けて」って声を掛けてきたし、休み時間にはアメとかチョコをくれたりもした。
雨が降れば「やば、私、傘持ってくるの忘れちゃった!」なんて言って聞かせてきたし、テスト前には「勉強してる?」とか、長期休暇前には「この夏休み、どこか行ったりする?」なんて、普通に―普通に、話しかけてきてくれたんだ。

そのおかげで、佐伯の交友関係の範疇の女子はそこそこ普通にしてくれたし、三年E組で居られた—佐伯と同じクラスで居られたあの一年間は、俺にとって奇跡みたいな、あの一年間だけぼんやりと光を帯びているみたいな…そんな、特別で優しい記憶として俺の中に残っているんだ。
佐伯がいなかったら俺、どうしていたかもわからない。
鬱屈してやっていけなかったんじゃないかって思う。

それくらい、俺にとって佐伯は—特別で、大切な存在だったんだ。

そんな佐伯をこの世界から失って、でも俺は、この世界に生きたままでいる。

正直、俺だっていろんなことをやったよ。
タイムリープして佐伯に再会しようなんざ、とっくの昔に考えついてたし。
でもさ、ああだこうだやっていて気づいちゃったんだ、俺。
俺さ…初め、佐伯に会いたいっていう理由でタイムリープしようとしていたんだ。
…弟のケガを避ける為のタイムリープを企てようっていう、そういう考えを持つことをすっかり忘れて、さ。

それに気づいた途端に俺は、途方もない罪悪感に駆られた。
そりゃあもうゾッとしたね。
俺は—自分さえ良ければそれでいいっていう、そんな自分に吐き気がした。
仮に佐伯と再会できたとして、俺は只の冴えないクラスメートだ。
きっと俺じゃあ、せいぜい過去のリプレイのまま、佐伯との再会を無駄に過ごして終わるに決まってる。
…そういう自分の情けなさも解っているからこそ、俺は、弟のケガを避ける為のリープに考えがすぐ行きつかなかった自分に呆れ果てた。
…馬鹿みたいだよな、俺。

だから、俺さ…。
こんな俺じゃあ、佐伯と再会しちゃいけない気がして。

だから、だから俺は、今、この現実を必死になって生きることにした。

生きるのはラクじゃ無いよ。
未だに俺の一家には、どんな理由があれ犯罪者の…っていうフィルターが掛けられたままだし。
でも、せめて俺は…いつか佐伯と再会できたとしても恥ずかしくない俺になりたいなって思って。
俺なりに、納得できる俺になっておこう…そう思ってさ。



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そう言って、ヤツは照れくさそうに笑ったのだ。

その時にはもうヤツはそれだけ饒舌になれる程に酔っていた。
だから俺は、肯定も否定もせずに曖昧な反応でやり過ごす様にして、ヤツが満足して財布を取り出す時間が来るのを待ったのだ。

ヤツと俺の家との分かれ道まで来て、俺はヤツがふらふらと歩みを進めて遠ざかっていくのを、何も言わずにじっと見送った。
もう、悩みや何やらで鬱屈とした雰囲気のヤツでは無くなっていた。
ヤツヤツなりに―俺に宣言した通りに、この現実と、ヤツの中に在る佐伯理玖との記憶と、うまく向き合っていく術を獲得したのだろう。
あれはつよがりなんかじゃない、それがしっかり伝わってくる雰囲気を、ヤツはちゃんと身に纏っていた。

…俺はなんとなくいたたまれない様な心地になって、耳の穴にイヤホンを突っ込んだ。
スマホを操作してサブスクリプションサービスを開き、こういう感傷的な気分の時に必ず選ぶアーティストの、お決まりの曲を聴く。
―随分と、古い曲なのだ。
そう、「俺たちが生まれるずっと前に出た曲」が、今はこうして手軽に聴けるんだから便利だなって、俺もそう思う。

気づけば降り出した小雨に打たれたまま、俺は外灯の明かりに目を遣った。
この外灯は—思えば、小学生の頃にはもうこの姿を取りとめていたっけな。
中身がLEDに交換されたのは、もっとずっと後のことになるけれど。

―けれど。

俺の口から、ぽろりと、そこにはいないひとの名前が零れる。
彼女あいつは、ここにはいない。
ここにはいないのに、今イヤホンから流れているこの曲は、ちゃんと現実ここに在る。
それが不思議なような、悔しいような―そんなぐちゃぐちゃな気持ちに駆られて、俺はそのまま雨に濡れることにした。
濡れたまま、ヤツの消えていった道の先を、目でなぞってみたりした。


俺は、佐伯理玖の恋人だったのだ。

けれどそれを証明すべき術は—この現実には存在しない。

これから独白することは、所詮俺の中にしか存在しない出来事だ。
もしかすると俺の脳が勝手に作り込んだ、偽りの記憶でしか無いのかも知れない。
それでも俺は—今日、ヤツの口から佐伯理玖という名前を聞いた時、喜びにも似た驚きみたいな、そんな興奮で胸が熱くなって―けれどもどうしても、罪悪感としか言いようのない感情も持ち合わせてしまったし、何より俺は—…とにかく、佐伯理玖について何も知らないふりをすることに努めたが、それは本当に本当に容易ではなくしんどかった。

とはいえこの瞬間に襲ったのは紛れもなく、言い表しようもない程の衝撃を以て俺を震わす興奮だった。
何故なら俺は—この現実の世界で他に、ヤツ以外に、佐伯理玖を覚えている人間に、俺は、出逢ったことが無かったのだから。


俺は今でもはっきり覚えている。
俺が―以前居た世界に―ヤツの言葉を借りれば、タイムリープをする前の世界に起きた、凄惨な出来事を。
そこそこ集まっていたはずの人々がパニックに陥って、泣き叫ぶ声。
それを聞きながら、さすまたとかってもっとすぐ手に取れる場所にないと意味ねえよな、なんてぼんやりと思いながら俺は、今自分が一番に口にしなければいけない言葉を、必死で絞りだしたのだ。
「理玖、逃げろ。」
刺されたのだと気づいた時にはもう、俺は自分が助からないであろうことを察するしかなくなっていた。
何が起こったのかも、案外理解できるものだった—人間ってすげえな、こんな時に結構冷静になれるんだ、と、そんな非常事態であっても不思議に思えた。
こういうのって、正常性バイアスってやつの影響なのかも知れない。
とにかく俺は、泣きながら俺に駆け寄ってきた理玖に、ひたすらこの言葉を掛け続けた。
「理玖、逃げろ。」

他にも何人かが斬りつけられたか、もしくは刺されたかしていることにも、俺の朧げな意識は気づけていた。
そしてその犯人が誰かにどうにか抑えつけられているっぽい様子も、ただしその抑制が万が一解かれてしまった際、きっと次に狙われるのが誰かということにも—俺は、残された時間が僅かだったからこそ、気づけていたのかも知れない。
「理玖、逃げろ。」
逃げて欲しかった、どうか理玖きみだけは無事でいて欲しい、と。
愛していたとかそんな深い感情を、正しく彼女に注げていたかはわからない。
ただ、理玖きみとしていた恋愛は、俺にとってとても愛おしい時間だった。
だからどうか―逃げてくれ、生き延びてくれ、理玖。

泣きじゃくる理玖の顔の映像にノイズが走る様にして何も見えなくなった、と思ったその時だった。
急に、体がぎゅうんとどこかに引っ張られていく様なすさまじい感覚に襲われた俺は、そのまま「もしかすると、永遠ってこんな感じ?」と思える程の、なんだか体感では計れない時間を過ごした—気がした。
とはいえ逆に一瞬であった、そんな気もする。
はっ、と気づいた時には「ああ、なんだ夢か」と、まるでいつも通りに朝日の射す自室のベッドの中で、俺は目を醒ましたのだ。

なんだ—嫌な、リアルな夢だったな。
そう考えつつ俺はふと、ベッドのサイドテーブルの上にスマホと一緒に置いていた、文房具店で探さないと売っていなさそうな洒落たデザインの封筒に触れようと—その手を伸ばした、そのはずだった。
指先に触れたのは、充電ケーブルの刺さったままのスマホ、それだけだった。
あれ?落としたかな―そう思って俺は、布団から起き上がってあの封筒を探した。
名前もわからない様な花々のイラストで縁取られた封筒、その中にはわざわざ綺麗なカラーインクを使って、恐らくは彼女あいつが気に入っていたガラスペンで書いたであろう手紙が入っていた、そのはずだったのだ。
しかし、封筒ごとその手紙は見つからない。
それどころか―俺はやっと、異変に気付かされた。
さっき指先で触れたスマホは、自分が以前使っていたはずの古い機種だったのだ。
着ていたパジャマも、着古してとっくに捨てたはずのものではないか。

勉強机の上には、丸筒に突っ込んだままの卒業証書が転がっている。

ぞわ、と、背中に何かが這う様な—気味の悪さに襲われた。
そして次の瞬間には、心臓が急な速度で鼓動を聴こえさせる。
年末に美容室に行くと必ず渡される卓上カレンダーを、俺は中学生の頃から習慣みたいにカラーボックスの上に飾っていた。
それを確かめる―ある疑惑を以て、これまで生きてきた中で最高値の緊張を抱きながら。

「嘘、だろ?」

俺は、成人の日の夜の同窓会の場でヤツに殺された。
どんな理由があろうとヤツを高校時代にみんなでぼっちにしていた事実を、俺は認めていた。
その恨みと、もうひとつ、心当たりはあった。
「私ね、こないだ翔くんに告白されたの…断ったけど。」
理玖こいびとにそう告げられたのは、大晦日に待ち合わせした夜のことだった。

大学一年の夏休み、北海道だいがくから久しぶりに帰ってきていた理玖とたまたま駅で再会した俺は、すっかり大人っぽくなった彼女にドキッとしてしまってつい、声を掛けてしまったのだ。
高校時代から、理玖のことはきれいだと感じていた。
ただし俺の周囲はどうも、目立つ女子ばかりをお姫様扱いしてしまう幼い野郎どもばかりだったのだ。
所謂大学デビューなんかさせたら一気に形勢逆転してしまいそうな女子たちはそこそこいて、佐伯理玖もきっとそうなるだろうと—そしてやはりそうなったのだ、と俺は心臓をどきどきさせた。

そこから、自分でも驚くくらいにとんとん拍子って調子に、俺と理玖の交際が始まった。
埼玉こっちに居る間中、理玖は俺と一緒に過ごしてくれた。
「この曲ね、私が生まれるのを楽しみにしてくれていたのに先に亡くなっちゃった、おじいちゃんが大好きだった曲なんだ。」
そう言って、自分のお気に入りの音楽を聴かせてくれたりもした。
もしかすると、同世代と比べたら結構幼い、まるでごっこ遊びみたいな時間の過ごし方を二人でしてきたかも知れない。
けれど俺にはそれくらいが丁度いい気がした。
たとえば成年誌に描写されていそうな大人ぶった時間の使い方をするとか、そういうのはきっと、俺らには似合わない気すらした。
長期休みが終わって離れ離れになっても、いっ時の欲だけで一緒に過ごした関係じゃあ無く、また逢うことを純粋に楽しみにできる様な、そういった絆が俺たちの間に結ばれていたはずだと、少なくとも俺には信じられた。

だから俺には、クリスマスプレゼントと同封されていた手紙もまた、理玖からの大切な贈り物であるとして—まるで御守りみたいにベッドのサイドテーブルに載せて、ことあるごとに読み返していたのだ。

すべてが仮に夢だったとして、夢というのはこんなに長期間に渡る時をも感じさせられるものなのだろうか?
だって、だって成人の日の夜に殺されたはずの俺が目覚めたら、高校の卒業式の翌朝に戻っているのだ。
そして—そしてこの目覚めた先の世界からは、俺にとって何より大切な存在が消失されていた。

この世界に、佐伯理玖は存在しないことになっていた。

そりゃあ手紙も見つからないはずだ。
SNSのアカウントどころか、卒業アルバムにも、そもそも同級生たちの記憶からも、理玖はすっかり抜け落ちていた。
理玖すらも、夢の一部だったというのか。
あんなにリアルに、繋いだ手のぬくもりまでちゃんと感じられたはずなのに…?

とはいえこの信じがたい現実からはどうも、目覚めることが叶わないらしい。
何度寝て起きてもやはり理玖のいない日常は続く。
いつまでも入学前の休み期間が続くわけも無く、俺は四月を迎え、致し方なく進学先に通った。
東上線に乗って、朝霞の大学で学生業に勤しむ日々。
そうしているとだんだん、やはり理玖のことは夢の存在であって、あの恐ろしい夜の記憶もまたまぼろしか—そんな風にも思えてこないことも無い。
でも時折物凄く寂しくなって、俺はひとり布団にくるまって号泣した。
理玖が教えてくれた曲をプレイリストにして、ひたすら聴いたりもした。
理玖に逢いたい—結局はその気持ちが強くなって、やはり俺にはどうしても、すべてが夢とは思えず―やっぱり俺は過去をやり直しているのだろうか、そんな風に思う様になった。

もしも「過去をやり直して」いるというのなら、俺はいったいどんな業を背負って、理玖のいない過去をやり直させられているのだろう。
そんなことを考えていると、どうしても行きつく答えがひとつだけ導かれる。
―きっと、ヤツのことだ。
弟の事件で腫れもの扱いされ、クラスの中で話をするのは理玖を中心としたほんの一部の女子だけ。
ヤツをそんな「腫れもの」にしてしまったのは、子どもの仕業であるとしても結局、俺たち残りのクラスメイトだ。
そして輪をかけて俺は、ヤツが片思いしてきた理玖を、ヤツからしたら横取り、みたいにしてしまった。
つまり、ヤツを殺人犯にしてしまう為の最後のスイッチを押したのは—俺、だ。

今からどれだけやり直したところで、理玖が戻ってくるとは思い難い。
そもそもまったくもって佐伯理玖の存在していない世界がここなのだ。
なのにどうして、罪滅ぼしをしたところで何が変わるというのか―それでも俺は、まるで突き動かされるかの様に、ヤツとのこの世界での関係を、少しでも良いものにしようと努めたのだ。
せめて—せめて、事件が起きなければいい。
それだけでもヤツの未来は救われるのだから。

ヤツの連絡先なんて知らなかった。
だからヤツが通学で使うという大宮駅に張り込んで―なんて言うとストーカーじみているけれど、これが意外とあっさり一日目で出会えてしまって、とにかく俺はヤツに声を掛け、どうにかこうにか、ヤツとゆっくり話をする時間を作れたのだ。

なんやかんやヤツとは幼馴染、小中学校も同じ仲だった—のに、あんなことがあって俺はヤツとの関係を断っていた—ので、とにかく必死で謝っているとヤツは「そこまでしなくていいよ、」と遠慮がちにほほ笑んでくれたから、俺は心底ほっとした。
ヤツも、寂しかったんだと思う。
そこから俺たちの関係は、ありがたいことにとんとん拍子に良くなっていったのだ。

ヤツが来なかったはずの成人式にも俺はヤツを呼んだし、その後の―惨劇の同窓会にも、本来ならば呼ばれない予定だったヤツを敢えて誘った。
恐らくは「逆を」やればいいのだ、と俺は賭けに出たのだった。
そもそもこの世界に理玖はいないから、少なくとも理玖というトリガーもまた存在しない。
俺はならばいっそ、ヤツも同級たちの輪の中に誘ってしまおうと決めたのだ。
ただしヤツは、成人式はともかくとして、高校の同窓会というものばかりはハードルが高いと遠慮した。
それも解る気がした、なんせヤツが最もつらい思いをした舞台は高校なのだから。
だもんで俺は、無理強いはしないことにしたのだ。
その代わり、俺自身が同窓会に出るのを辞めてみた。
そして同窓会が催されている時間帯に、俺はヤツを誘って駅前のカラオケで夜通し歌うことを選択し、結果、その賭けに俺は、見事勝利したのだった。

学割の効く安いカラオケの狭くて暗い個室の中、マイクを握って気持ちよさそうに歌い上げているヤツを横目に俺は、自分が殺されることを回避したこの世界線を―やはり、佐伯理玖の存在しないこの世界を、嬉しくはなく、けれどもどこかほっとさせられたような―そうだ、罪悪感からほんの少し解放されたからだろうか、とにかく、ため息を以て痛感したのだった。

「次、お前の番な」と、ヤツが俺にマイクを渡してくる。
一瞬、俺は理玖の好きだったああいう曲の中からひとつ歌おうかと考えたものの―なんだかやっぱり怖くなって、どうということはない、誰もが歌えそうなヒットソングを歌っておいた。
俺みずから理玖を匂わせるものを、ヤツの前にちらつかせることに、俺はやはり恐怖を感じていた。
それこそがトリガーになってしまう気すらして—ならばと俺は、永遠たる安寧を選んだのだ。

理玖がヤツによって傷つくことの絶対にない、絶対的安寧の世界を。


けれども結局、この世界のヤツの中にも、佐伯理玖は存在していたのだ—。

「きっと俺が同じクラスの誰よりも、佐伯を特別視してたからかも知れないな…俺の中に、佐伯が残っている理由わけ、は、さ。」

ヤツが酔っ払いながら口にしていたその台詞は、俺にも充分に納得のいく仮説だ。
俺らは二人して、佐伯理玖という少女に憧れていた。
だから佐伯理玖の存在する世界線から外れてしまっても、俺たちはけして、理玖のことを忘れたりできなかったのかも知れない。

―もしかすると、すべて理玖の仕組んだことだったのだろうか。

理玖はヤツが同窓会で起こした事件を悲しみ、それが起きなかった世界線を紡ごうと願いを込めて、俺とヤツのことを、何らかの力を以てこの世界へ跳ばしてしまったのかも知れない。
理玖にはもしかするとそういった不思議な力があって―ああ、それこそヤツの言う通りだったのかもな。
理玖には「亡くなったミーコを長生きさせたかったから」タイムリープすることも、事件の無い世界線へ俺たちを跳ばすことも、叶えてしまう力があったのかも知れない。

でも、それならば。
もしも理玖も、俺のことを―遠くかけ離れた別の世界線に存在していたとしても、それでも、今でも俺のことを好きでいてくれるのならば。

どうかもう一度、同じ世界に生きて、理玖きみと恋をさせて欲しい。

頬を濡らしていたのは、雨だけでは無かった。

なあ翔—俺は黙っていたけれど、そもそもけして口外するつもりなんか無いけれど、俺はな、お前と同等かそれ以上に、タイムリープとかそういったものについて調べ尽くしているんだよ。
そうして何度となく、理玖との再会を夢見て、ありとあらゆる方法を試してタイムリープやら世界線の移動パラレルリープに挑んでいる。
たださ、やっぱりこういうのってなかなかうまくいかないんだよな。
世界中の修行者たちが死ぬほど苦しい努力をしたって、悟り切れないくらいの荒業だもんな、一般人の俺がそう簡単に会得できるとも思っちゃいないよ。
でも、俺は実際にこの世界線に生きている。
理玖のいない世界線に、生かされてしまっている。

「もし気が向いたら、北海道に就職してね」
読みすぎてもう、暗記してしまったほどの文章が―俺の口を、ぽろりとついた。
「獣医学部は六年間あるから、私の方が学生の期間が長いの」
「北海道はいいところだよ」
美行よしゆきくんと一緒に住めたら、とても楽しいだろうなって思う」
「だから」
「北海道の、できたら札幌に就職してくれたら嬉しいな」
脳裏をかすめるのは—鮮やかな花々の、描かれた封筒。
そしてガラスペンによるきれいな文字で綴られた、かわいらしい、けして忘れられない言葉たち。
「美行くん、私の恋人になってくれてありがとう」
「北海道と埼玉で離れて暮らすのはさみしいけど、いつか一緒に暮らして、休みの日にはカフェとか図書館に行ったりして、楽しく暮らせたらいいね」
「だから今回のクリスマスプレゼントは、いつか一緒に使いたいから、札幌の工房で作っているっていう、木のカトラリーを贈るね」
「願掛けみたいなものだと思ってほしい」
「そのままどこかにしまっておいて」
「そしていつか同じ場所で暮らせる日が来たら、一緒に使おうよ」

―結構、理玖は夢見がちな少女だったと思う。
結婚とかでなく同棲に想いを馳せているのが、なんとも可愛らしいなと感じて—俺は春みたいにやわらかな幸せを実感しながら、そのプレゼントをクローゼットの中にしまったのだ。
―勿論、そのカトラリーは箱ごと消えてしまった。
当然なのだ、この世界に佐伯理玖は存在しないのだから…。

雨だけで誤魔化せない程に、俺はその場で嗚咽していた。

「なんやかんや寂しかったのかも知れないぜ、だって自分だけが人生をもう一回やり直すって、すげえ孤独な戦いにも思わねえ?」

ふと、ヤツの言葉が頭の中で再生される。
ああ、お前の言う通りだよ、翔。
この人生は、物凄く孤独で、寂しい。
俺はいつまで、この孤独に苛まれて暮らしていかなきゃいけないのだろう…?

体を濡らしたまま家に帰ると、居間で妹がテレビを点けて眺めていた。
「やだあ、お兄ちゃんびしょ濡れ!」
少しだけ俺に視線を注ぎ、そう言って嫌そうな顔をした妹は、どうやら好きな俳優が出ているらしい番組へとすぐに視線を戻す。
しかし番組は途端にCMへと切り替わり、濡れて肌寒さを感じている俺をまるで察したみたいに、湯気を蒸かしているシチューの広告を流し始めた。
北海道の牛乳を使った、とか、そういったフレーズが画面から発されている。

―ああ、そうか、北海道か。
変に納得し、俺は、びしょ濡れのまま、シチューのCMなんてとっくに終わってしまったその画面を見つめ続ける。
そうだ、今年のゴールデンウィークは北海道に出掛けてみよう。
行き先は札幌だ、確か北大は、キャンパス内を観光客も散歩できるはずだ。

馬鹿みたいだと思われるかも知れない、自分でもそう思う。
でも俺にはなんとなく、北海道に行けば、理玖の気配に出逢えるような気がしたのだ。
結局はどうということもない旅になるかも知れない。
それでも、それならば長期休みのたびに俺は、北海道へ、札幌へ出掛けよう。
そして就活は札幌の会社に絞って、手元にあのカトラリーも手紙も残っちゃあいないけれど、それでも、俺は…。

「そしていつか同じ場所で暮らせる日が来たら」

理玖の、その言葉を信じてもいいのならば。
理玖もきっと、俺ともう一度再会できることを、きっと、望んでくれているはずだ。
俺もまた、その奇跡を信じよう。
その為にまず、理玖の望んだことをひとつ、真に受けてみるのだ。

悪いな、翔。
俺はお前みたいにはなれない。
自省して「理玖に相応しい自分」を目指して生きることより、素直に心に従うことにするよ。
俺は、お前を傷つけてのけ者にして安全な場所で過ごしていた、ずるくてひどい人間だ。
でも俺は、そんな俺を受け入れて、好きでいてくれた理玖に感謝して生きたい。
俺は、今でも佐伯理玖のことが好きだ。
理玖と生きることを、こんな状況になった今でも、どうしても諦めたくないんだ。

熱いシャワーを浴びて、ふっと視界が開けた様な気がした。

今、ここにあの手紙は無い。
勿論、カトラリーの箱だって無い。
それも俺の中には確かに、佐伯理玖の存在がある。
理玖の好きだった音楽たちだって、しっかり覚えている。

それだけあれば、充分じゃあないか。
俺は一体、何を疑っていたんだ?
佐伯理玖は、確かにいる。
俺の中に、理玖がいる。
それだけでいい、それだけで俺は、信じてやっていくことができる。

パソコンの前に向かう。
まずはチケットを取ろう、ゴールデンウィークの、札幌行きの。
少し値の張る期間に違いない、とりあえずクレジットカードで支払いをして、これから短期のアルバイトを探して稼ごう。
―久しぶりに、心が躍動している自分に気づいた。
なんだかデートの計画を立てているみたいで俺は、自然と顔がほころんでしまう自分がおかしくって、照れくさくなって、笑った。








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#ミステリー小説部門






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