ラプンツェルはかく語りき

私が人を家に入れるのは、この人ならいいや、と思えた時に限る。

一人暮らしをし始めた時からそうだった。誰でもカモン!な人間では無かった。うちの母親は親戚なんかと狭い家で夜中まで酒盛りするタイプで、私はそれが物凄く苦痛だった。そういうのも、私が人を家に入れたがらない理由かも知れない。

とはいえルームシェアなんかも経験してきた。そういう時は「もうどうしようも無い時」だもんで、諦めがついている。けれども一たび自分の城を手にした途端、私は自分の扉をぱたりと閉める。魔女と暮らしていないラプンツェル、なんて言ったら随分可愛くなるな。

先日、よその街で暮らす義理の母の知人でもある、うちの某ご近所さんが「調剤薬局へ連れて行って欲しい」と言ってきた。最寄りの調剤薬局までは徒歩圏内だったけれど、どうしても車の距離の薬局へ行きたいと言う。

母の知人ゆえに断り切れず、夫に打診してやむなく車に乗っけてあげたけれど、私よりもこういう時にうんとドライでちゃんとしている性格の夫は「どうして最寄りの薬局じゃダメなんですかー?」と、とても自然な感じで質問した。

「あそこの薬局じゃ(某T)ポイントカードが使えないから」…と、その人は言ってのけた。おいお前今すぐ車を降りろ、100円につき1ポイントしかつかない、その程度のポイントの為にウチの車を出す必要がどこにある―そんな風に言えたなら、私は過去に鬱病なんてならなかったろうねってゆー。

しょうがなしに今回だけはOK、ということにした。本人には言わなかったけれど。母に連絡を取って、これから先は断るよってことの了承を得ようと思う。母はとてもまともな人なので、そんなことでぐだぐだ言わないだろうし。

そして今日になって、またそのご近所さんがウチのインターホンを鳴らした。一回で出ないからって二回鳴らすのやめてほしい…。入浴中だったのでその旨を伝えて帰って貰った。たぶん「車を出してくれたお礼」の来訪だったんだろうけれど、申し訳ないけれど、明朝9時過ぎまでは、インターホンの電源を落とすことにした。早朝っていうか深夜帯勤務の夫の睡眠を妨げられたら、たまったもんじゃないので…。

家に人が来る、たとえ玄関先であっても―そのプレッシャーは私にとって、物凄いものがある。年一で来るガスの点検もマジしんどい。幸いにも、義理の両親は我が家には来ない。駐車場が軽自動車一台分しかなくって、ウチの車を置いたらふさがってしまうこと、そしてだいぶ昔にまだアパート暮らしをしていた頃、あまりにも汚くしていた部屋に義理の母が来てしまって、それから「家に行く」とはいっさい言われなくなってしまったこと、それらのおかげだろう(ダメ嫁ですん)。

もっともっと田舎のお家とか、いきなしご近所さんが来訪してきて、玄関でお茶していくそうだ。こないだ雑誌で読んだ、お洒落古民家の取材で言ってた。そういうのが良き文化な部分もあるだろうけれど、申し訳ないけれど私にはきっつい。

距離感のわかってくれているご近所さんが今までは多く、そういう面にだいぶ助けられてきた。人によっては休日に一緒に焼き肉をやったりするほど、心を許せているご近所さんもいる。

けど件の母の知人は最近越してきて、距離感がうまく測れずに来てしまったので、あーこれからどーしよー、私、自分の副業の関係でも来訪せざるを得ないお家なんだよマジどーしよー、と、いま気が重くてしょうがない。

以前にも近所にすっごいアクの強いばあさんがいた。スーパーまで乗っけていけ、と車を持つご近所の誰にでも絡んで、断ると凄い剣幕で悪口を言う。そういうんで嫌われきっていたけれど、今はどこぞの施設に入って久しい。お家だけが固く雨戸を閉めきった状態で置き去りにされている。

団塊の世代とかの人は、ちょうどいい距離感を求めていたり、人になるたけ迷惑を掛けないように生きている、そういう性質を持った比較的若い世代のことを、どんな風に見ているのだろう。

というか、心に重苦しいものを抱えて、自分の扉を閉ざさざるをえない人間のことが、どう見えているのだろう。

都会の良さって「無関心」だよな、と思う。時にはマンションの隣人が亡くなって腐って虫が涌くまで気付かない、そういう無関心さ。それが時に心地よいことがある。

過去に何を抱いていても、もしかするとイマも大きな犯罪をおかして逃亡中の身だったとしても、迷惑さえ掛けなければ放っておかれる。それは、時々大きな救いをもたらす。こんな自分でも社会の片隅に生きていてもいいのだ、そういう暖かさを与えてくれる。

家というのは、自分を解放する場所だ。様々なしがらみから、やっと逃げてこられる場所。猫の体に顔をうずめて「猫吸い」できる場所。夫がなんでか気に入らずにずっと履いていないボクサーブリーフを、私が代わりに履いて、その格好でうろうろしても赦される場所、だ。

だからだろうか、私は「定住」が怖い。今も借家だけれど、何かあれば逃げ出せる安心感がある。もしも家を買ってしまって、そこに面倒な隣人でも居たら、そんな簡単には逃げ出せない。それが、とても怖い。

子供の頃はあんなに、シルバニアファミリーの大きなお家みたいな新築の一軒家に憧れていたのにな。ずっとアパートだったりマッチ箱みたいな借家だったりで、自分の部屋すらろくに無いことが劣等感のひとつでもあったはずなのにな。

そういえば昔、一人暮らしをしていた頃にうっかり玄関の鍵をかけ忘れて寝ていたら、気付いたら玄関に男の人が立っていたことがあった。なんだか誰かの声がするな、と思って起き上がって、一応玄関を確認したら、既にそこには小柄な若い男性が入り込んでいたところだった。一瞬ぎょっとしたものの、暴漢といった雰囲気は無く、男性も男性で困惑していた。ヴィジュアル系のバンドにでもいそうな、ちょっとそういう感じの人だった。どうも、前にこの部屋を借りていた人の知人らしい。とっくにその人は出て行って、今の住人は私ですよと伝えたら、どうもすみませんとちゃんと謝罪して、その彼はどこかへ帰っていった。その後も再訪ということは無く、彼は本当にやましいこと無く現れた人だったのだ。

鍵が掛かっていないからって玄関まで入ってきてしまえるほど、その彼と親しい間柄だったはずであろう前の借主は、彼に何も言わぬまま、いったいどこへ行ってしまったのやら。

けれどもそれくらい、人は近すぎず遠すぎない存在で、それが案外心地よい距離感というものなのかも知れない。

人は、お互いのすべてを知らなくったっていいのだ。すべてなんて知って、いったい何の得があるだろう。たとえばパートナーの初体験がいつだったかとか、そんなことを知ったって、そういうことに興奮する人以外は、まったくもって得なんかしないでしょうよ。

インターホンの音が、電話の鳴る音が、いちいちとても恐怖なのだ。

私もビバップ号みたいな船に住んで、星の間をふらふら漂えたらいいのにな。



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