見出し画像

やましいたましい

人は、見せたくない部分を隠したくって、まるでうまいことそれを利用したつもりで、自分に一枚、薄絹をかぶせる。

喩えがあんまり良くないかも知れないけれど、不倫している人というのは、その「やましさ」からパートナーにいきなしプレゼントを贈ったりするらしい。きっと自分では、うまいこと相手のご機嫌を取っているつもりにでもなっているのだと思う。でも実際は「やましさ」、これに尽きると思う。

疚しい―これで「やましい」と読む。「やまいだれ」の部首を使っていることにお気づきだろうか。疚しいは「病む」を形容詞化した言葉なのだという。つまり「やましい」状態にある時、人は、病んでいるのだ。

良心がとがめるとか後ろめたいとか、ご存じの通り「やましい」にはそういった意味がある。でもその他に、気分が悪いとか不安だとか、そんな「病んだ」意味合いをも持ち合わす。

最近ふと私は、人がそのやましさからかぶった薄絹を、何となく見抜けるようになった(気がした)。一見それはまるで高品質のファンデーションの様に、あるいは縫い目の無いストッキングの様に、さも素肌を曝け出しているかの如く魅せ、見る人の目を騙してしまう。けれどもそれがやましく弱った蚕の繭から紡いだ絹糸を、これでもかと丹念に織り上げた薄絹だということに、何となく、気付くようになったのだ(たぶん)。

それは虚勢に似ていると思う。けれども「虚勢」と検索してすぐに出てくる「からいばり」という例えの持つみったくなさ(北海道弁だぜい)には、「病んだ」感が伴わない。やましさは威張るような無理矢理の強さを持たない。何というか、儚い。

勿論、私自身もしょっちゅう薄絹に包まってヘラヘラしているわけであって、けれどもふいにそれが嫌になった。そうしてまがい物の素肌を「綺麗だ」と褒められたとて、ならば私はいったいいつになったら、裸の姿を愛してもらえるというのだろう?

前にも書いたけれど、きっと、私が一糸纏わぬ姿で表現したものこそが、誰かの心に届くのだと思う。そこにあばたや何かが目立っていたとて、それすらも私にしか持ち合わせない魅力になるのかも知れない。

ただ、薄絹をかぶって自らをキレイなものに見せたい人というのもまた、魅力的なのだ。病んだ姿の持つ儚げな空気というのもまた、その人が病むべき理由を持っていることを匂わせてくれる。その理由を何となく察する。探る、では無粋なので、あくまで「察する」に尽きる。あーこの人はパートナーとほんとはあんまりうまくいってないんだろうな、とか、本当は叩かれるのが怖いけどてんでへっちゃらみたいな顔しているんだろうな、とかいろいろ感じてくる。それを指摘するのはそれこそ無粋、野暮。そうしてやましさを抱えて生きていくさまは、なんとも人間らしくて、美しいではないか。

だから、薄絹を脱ぎ捨てることを、私はけして人に強制したりはしない。そんなの自由だ。好きにしたらいい。

でも、やましいのだな、とは思う。見え隠れするやましさに、私はその人の生きづらさを嗅ぎ取る。私にだけは本音を吐いてくれても、誰にも言わないから安心してもいいよ、とすら思う。実際にはそんなこと、けして言ったりしないけれども。

だって本人が一番、そのやましさを自覚し、苦しんでいるのだろうから。


参考資料・goo辞書



頂いたサポートはしばらくの間、 能登半島での震災支援に募金したいと思っております。 寄付のご報告は記事にしますので、ご確認いただけましたら幸いです。 そしてもしよろしければ、私の作っている音楽にも触れていただけると幸甚です。