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豊平川のライオン

もう、ずうっと昔の話だ。

私という18歳の少女はその年の春、実家を出、札幌で一人暮らしを始めた。

豊平区、最寄り駅は地下鉄東豊線学園前。国道36号線沿いの、古いマンション。ワンルームで6畳あったか無いかの本当に狭い部屋で、唯一の利点があるとすれば、それこそ36号沿いであることだ。歩いてすすきのまで行けるし、歩いて札幌駅にだって行ける(少し時間がかかるけれど)。田舎から出てきた少女には、とてもまばゆい場所だった。

大学は家からすぐの北海学園大。二部を推薦で受けて合格した。昼間は大通にあった古本屋のチェーン店で働き、夜には学校へ通う。生活費や学費は、奨学金とアルバイト代で賄う。仕送りは無い。

春が終わる頃には、私は既に学校へ通わなくなっていた。アルバイトが少しブラック気味だったのと、学校の雰囲気に馴染めなかったのと、他にも。色んな場所から僅かずつ、理由が生まれていた。そして気づけば、高校時代の友達とはどんどん距離ができてゆく。皆、ちゃんと学校へ通って、友達を作って、彼氏を作って、生活を充実させているというのに。私はぴたりと立ち止まってしまい、そのまま、どうしていいかわからなくなっていた。

バイトが終わり、夜になると、学校へ行くか少しだけ迷い、結局自転車に乗って駆け出した。夜に自転車に乗って出掛けられる、というのはとても新鮮だった。高校時代とは違うのだ。終電も門限も補導だって気にせずに、一人で好き勝手が出来る。大通の自分の職場まで行って、夜のシフトの同僚がまだ居るかを確認してみたり、夜中まで開いているリサイクルショップまで行ってみたり。大都会の夜を、自由に走る。そういう時間は、私の心をとても穏やかにさせた。スピッツの「夜を駆ける」という曲が、幾度となく頭の中で流れた。


そんな生活の中で私は、少しずつ死にたくなっていった。

大通の店でのバイトは辞めた。そこで出逢い、私と特に仲良くしてくれた人たちは皆、何かしらの「夢」を持っていた。役者とか、DJとか、テレビ局のスタッフとか。そういう話を聞いているとふいに「私はいったい何をしたいのだろう、」という思いに襲われた。だんだん私は自分の中の暗いものに蓋を出来なくなり、ひどい話だが、仕事をバックれた。


奨学金は借りられる環境のままとはいえ、私は職を探した。学校の近所にあったセイコーマートで、早朝に働き始めた。6時から9時まで働いて、帰宅した後は結局、ぼんやりと過ごした。学校へはやっぱり行かなかった。


そんな日々の中で、私は、家の近所を流れていた豊平川を散歩するようにもなっていた。この川に沿ってずっと歩いていくとたぶん東区まで行けるんだよな、と、よくわからない目標のようなものを持っていた。結局そこまで歩けていたのか否か、地理に詳しくなかった私には未だに判らない。

豊平川は大きく、私にとってはどことなく三途の川を想わせた。夕方から夜にかけての穏やかな時間、私は豊平川沿いの道に立ち、なんとなく「東区」に向かおうと努力するのが好きだった。この時に頭に流れているのも大概スピッツで、「水色の街」がよく似合うシチュエーションだった。

高校の時から私は、行き詰るとよく「歩く」少女だった。学校をサボって銭函ら辺を何となく歩いてみたり、学校の最寄駅の南小樽をとうに乗り越して、発寒中央で電車を降りて札幌駅まで歩いてみたり、そういうことを好んでやった。そうしている間、私はきっと「何者でもない」存在になれた。そう、自転車で夜を駆けているあの時間だってそうだ。学生でもない、フリーターでもない、友達と完全に距離が出来てしまって、途方も無い淋しさで死にたい「私」でもない。私はたとえば擦違う人にとって「擦違う人」にしかならずに済む、その時間を愛していた。

川沿いを何度か歩いている内に、私は、対岸に不思議なものを見つけた。

そこには緑色の大きなライオンが居た。

大きな大きなライオンが、建物の屋上にどーんと居たのだ。それはとても、非現実的な光景だった。「豊平川、三途の川説」をますます色濃くするほどのそのライオンは、どうやらパチンコ屋さんの屋上に設置されたもののようだった。その大きさといえば、私の記憶でしかないので曖昧だけれど、「札幌かに本家」のあのリアルな蟹の看板を、そのままライオンに咥えさせてちょうどいいほどの巨大さだったと思う。

(翡翠のよなうつくしい色をしたライオンは、私の記憶の中ではしっかりと緑色だったけれど、今になって調べてみると、どうやら本当は白かったらしい。思えばパチンコ屋の屋上の照明が、ライオンを緑色っぽく照らしていたのやも知れない。)

そのライオンは、私にとってまるで幻獣のように映った。どこか、胸を高鳴らせるものがあった。対岸に居る、という微妙な距離も良かったのだと思う。単なるパチンコ屋の飾り物、しかし私にはそのライオンが、とてもいとおしいものに感じられた。あの向こう岸には何があるのだろう、と、私は心を寄せた。当たり前に札幌の街が広がっているはずなのに、何故だかあすこは、もう違う世界のようにすら感じられた。そのライオンがまるで、三途の川の入り口の番人でもあるかのように、そんな風に。


死にたい、という気持ちはきっとずっと昔からあった。小学生の頃から、人とうまく付き合うのが苦手だった。こじらせてこじらせて、それをどうにか誤魔化して生きてきて、この夏に爆発した。白石の病院だったろうか、私は「メニエル症候群」と診断されたけれど、結局なんだか納得いかず、少し調べて見つけた東区の精神科で、いくつか薬を処方された。

学校へはもう戻れないことくらい、判っていた。とっくに単位なんて足りていなかったはずだ。奨学金とバイト代を本当にちまちま使っての生活だった。何故だろう、入学する前は、それなりにいろいろ夢見ていた。そのはずだった。なのに気づいたら、私はいったい自分が何をしたいのか、わからなくなっていた。マンションに帰ってきて、集合ポストの前の花の無い花壇に猫の糞がたんまりあるのを見、私は絶望した。私は何をしに、札幌へ出てきたのだろう―?

部屋に戻ると、折りたたみベッドも広げず、カーテンも閉めず、冷たく固いフローリングの上に寝転がった。さわさわと夜の闇を木の葉が鳴らす音に、バンプオブチキンを合わせて流して聴いた。大通の元アルバイト先からは、働いている頃、よく夜中に電話が来たっけ。日付の変わる時間帯だ。レジ締めのお金が合わないと、その日一日シフトに入っていた総ての人間に事情聴取の電話が来るのだ。当たり前だが、その理由が判明することも無い。決まった時間ごとに有り金の計算をするにも、あまりに忙しい店だったからかそれも出来なかった。「あー、電話がうざいから夜中は携帯の電源、落としちゃってるよ。」私と仲が良かった同僚は、そんな強行に出ていたくらいだった。


誰も私を知らない、私が「何者でもない」時間を、あの対岸のライオンだけが共有していた。ライオンだけが私を私と知っていた。「やあ、また来たね?」とでも言ってくれているかのように、私をあすこで待っていてくれた。私が、学校にも通えない、仕事もバックれる、そういうどうしようもない人間であっても、ライオンだけはいつもと変わらず其処に居てくれた。

私はやがて実家に戻ることとなる。一人では生活できぬほど、私は心を弱らしてしまったのだ。満足にライオンにお別れも言えなかった。それだけが少し、心残りだった。


しかし、だ。

今はネットの世、私はあのライオンの「その後」を知ることが叶ったのだ。

あのライオンはどうやら、パチンコ屋さんの閉店後、無事に、ノースサファリサッポロという場所に再就職できたらしい。どうやら中に入ったりも出来るアトラクションとして生まれ変わったようで、ライオンは三途の川の番人から、いきなし現実的なお仕事に転職したらしかった。

―ねえライオンさん、私は私でちゃんと生きながらえているよ。しかも今は、死にたいなんて望むことも無くなったよ。自分が何をしたいかも、ちゃんと見えている。お互い、まだこの世で踏ん張り続けているね。でも、本当に良かったと思ってる。あなたも私も、あの頃とは変わったね。けれどもけして、悪いほうに変わったんじゃあ無い。じゃなきゃああなたも私も、豊平川をほんとうに三途の川にしてしまうはずだった。そうでしょう?


そんな、私とライオンの物語。またいつか、あのライオンに逢えますように。









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