雪の女王
ある小さな村に、一対の男女が—否、男女というよりも、彼らは少年少女と表すのにふさわしい、そんなまだあどけなさを残した、仲睦まじい二人がおりました。
いずれ彼らも十代の終わりまでには結婚し、そんなこの村では珍しくない世代の夫婦となり、そうして子沢山孫沢山の家族として栄え、ありふれた、けれども光に満ち溢れた幸せをまっとうする—そんな未来が訪れることを、雪深きその村の誰もが、信じてやまなかったのです。
ある日のことです。一人の行商人の男が、その村を訪れました。彼は村長の家でひそひそと商談をしていたかと思えば、その後、幼い娘を抱えて生活に苦しんでいる未亡人の家に出向き、かなりの長い時間を要し、話し込んでいたのでした。
その様子を不審に思った少年は、関わらない方がいいんじゃない?と心配する少女をよそに、こっそりと行商人に近づきました。行商人はにやりと笑うと、少年に、商品の一つである手鏡を渡しました。
それは少年のお小遣いでも充分に足りるほどの値段しかせず、初めは少年も、その美しい細工のなされた手鏡を少女への贈り物にするつもりで買ったのです。しかし行商人は、ぬめりけのある笑みをその顔に貼りつかせたまま、少年の耳に囁きました。「家族がみーんな寝静まった後、その鏡を割って御覧なさい。」
少年は不思議に思いながらも、興味本位からその言いつけを守りました。バラバラに割れた鏡の中にはなんと、こっそりと地図が隠されていました。そうまでしても秘密にしておかねばなるまい場所が、この小さな地図に記されているということに、少年は、いかにも少年らしい胸のときめきを覚えました。そう、まるでこれは、雪に閉ざされてばかりの田舎の村で、少女との平和すぎる恋愛のほか、ただひたすらに退屈を覚えてやまなかった少年にとって、まさしく宝の地図に見えたのです。
吹雪に隠れる様にして、忽然と少年は姿を消しました。少女は泣き叫びながら彼を探しましたが、そういえばあの未亡人の家の幼女も行方が知れなくなったというのに、村の誰もが、まして母親であるはずの未亡人すら、そのことについて一切触れやしません。
にやにやしながら次の村へ旅立った、あの行商人の仕業だ—敏い少女はすぐ、そのことに気づきました。
しかし、雪深き山々を超えて少年を探しに行くことは、か弱き少女の力では難しいことは明らかでした。まして、山賊も出ることのある厳しい環境です。せめて、春になってからだ—少女はそう決心し、雪解けまでの長い長い期間を涙をこらえて過ごしました。そうしてやっと、少しの緑が雪の下から顏を出した頃、少女は誰にも出発を告げぬまま、生まれ育った村を飛び出したのです。
少女は村の子どもの内で誰よりも読み書きが得意だった割に、随分と夢見がちなところがありました。見つけた花や虫、時折顔を見せる野兎や鹿に対し、少女は寂しさを紛らわすかの様に、いつも丁寧に話しかけました。その様子はまるで、少し気の触れた者の様にも見えたのです。
ある夜、大木のうろに身を嵌める様にして眠りについていた少女をたまたま見つけた旅の男が、少女をあっという間にそこから引きずり出しました。声を出す間もなすすべもなく、そのまま少女は見知らぬ男の慰み物にされてしまったのです。
が、少女はそれらをけっして「現実」とは信じませんでした。これは、すべて夢—少女は強い心でそう信じると、脚の間から垂れていた鮮血や下半身に走る痛みについて、知らぬふりをしました。そうして虚ろな目をして木の下にしゃがみ込んでいたところに、偶然にもお城の兵士たちが通りかかりました。この辺りの治安の悪さから、王様によって彼ら兵士が夜警に遣わされていたのです。
「なんて憐れな」、そう言って兵士たちは状況を察し、少女を保護しました。彼らは少女を気の触れた者だろうと決めつけ、そう王様に報告し、優しい王様はそれを真に受けて、少女に城内の一部屋を与えて世話係をもつけてくれました。
「私は、大好きな彼を探しに行かなくちゃあならないの!」
しじゅうそう言って、あわよくば部屋を抜け出そうとする少女を、世話係たちは必至で取り押さえました。城の中で退屈な生活を送っていた王子は、ある日少女のそんなてんやわんやを垣間見、ほう、と少女に興味を持ちました。
少女は雪深い村の出身であるせいか、白く透きとおる様な肌をしていました。亜麻色の髪は柔らかそうに揺蕩い、乳房はたっぷりと膨らんでいて—少女の美しさは、当たり前に王子のことも魅了したのです。王子は、この城の誰もが自分の味方—一部の者においては、奴隷ですらあることを自覚していました。王子がその気になれば、少女を手籠めにするくらい、赤子の手をひねることよりももっと容易かったのです。
そんな兄の欲望に、王子の妹である王女は目ざとく気づいてしまいました。王子の異母妹である王女は、兄のことを愛していました。兄が他の誰かを娶る日のことを恐怖し、そんな日が来てしまったら自害しようと思い詰める程に、ひたすらに王子を愛していたのです。
当然、そんな王女にとって、突如現れた素性の知れぬ美しい少女の存在は、排除するに相応しいものでした。たとえば少女に毒をふくませるのは容易なことです、しかし、不用意に死人を出してしまって、兄にそのことを勘付かれて嫌われでもしたら—王女はそう不安視し、あくまで生かしたまま、少女をこの城から排除する方法を、従者と共に企んだのです。
「あなたは、愛した人の行方を追い求めているのね。」
まるで気持ちに寄り添うかの様なふりをして、王女は少女に言葉を掛けました。
「私があなたに馬車を用意しましょう。あなたはその馬車に乗って思う存分、愛した人を探す旅をしたらいい。」
王女はそうして少女を馬車に乗せ、年老いた御者を一人つけてやって、そうして少女を城から体よく追い出しました。「ありがとう、王女様!」、何も知らない少女は涙を流して王女に感謝しましたが、あまりに目立つ仕様のその馬車は、山道に入った途端にあっさりと山賊に襲われてしまったのです。もしかするとそこまでもまた、王女の計画の内だったのかも知れません。
御者は無惨に殺され、少女はまたしても山賊たちに犯される寸前でした。しかしそこへ「やめな!」という声と共に現れたのは、浅黒い肌をした、黒髪の豊かに蓄えたふくよかな娘でした。山賊の頭領の娘である彼女は、同じ年ごろである少女が犯されることに胸を痛めたのです。「そんなコをヤらなくっても、あるじゃあないか…あの館が」、そう言って娘は、少女の身を守ってやったのです。
山賊の娘の粗末な部屋で、二人はまるで親友の様に身を寄せ合い、これまでの自分たちの身の上話を聞かせあったのでした。山賊の頭領の娘として、父親も認める程の強い男を婿に迎えねばならないと、ろくに自由な恋愛も赦されない身であった娘は、少女の悲恋を聞いてまるで自分のことの様に涙しました。
しかし、その一方で—娘には、ある疑念が浮かんでいました。
「…この先、もっと北の方角に、古い館がある。もっと昔の時代の領主が打ち捨てた館だ。…あんたの愛した男はきっと、そこへ行ったんじゃあないかと思う。」
娘は、それ以上のことを濁しました。心の純粋すぎた少女は、それに何の疑問も持たずに喜んだのです。やっと、あの人に逢える—少女はそのことに瞳を輝かせ、山賊の娘に何度も御礼を言いました。が、娘の表情は曇るばかり。しかしそんな様子にも気づかない程に、少女は浮かれてしまっていたのです。
翌朝、山賊の娘は一頭のトナカイを用意してやり、少女をその背に乗せました。そして、餞別として伝書鳩の入った鳥かごを持たせてやったのです。
「いいかい、私に助けを求めたい時がもし訪れたなら、その伝書鳩を飛ばすんだ。そうしたら必ず、私や山賊の仲間が、すぐにあんたを助けに行くから。」
か細い少女のその背中を見送りながら、山賊の娘は、少女の行く末に心を痛めずにはいられませんでした。北にある館というのが娼館であり、村々を行き来しては女たち—時には幼女さえもを買って、その娼館に売り飛ばすことを生業とした行商人がいることを、娘は知っていたというのにどうしても、少女に告げる勇気を持てなかったのです。
時折、山賊の仲間が性欲を持て余して、その娼館を訪れていました。そうして彼が聞いてきたのが、娼館の元締めである初老の女が、その身が老いたとて枯れてはくれなかった欲情を発散させる為に、若い男の存在を求めているという噂だったのです。
少女の探している少年が、元締めの女の餌食になった可能性は充分でした。
昔、どこかの王家の血筋を継いだ女が倫理に反することをし、自らの国から追放される代わりに、あの館に移り住むことを赦されたのだ—そんな話を聞いたこともありましたが、今となってはそれが何の意味もなさないことを、山賊の娘はわかっていました。娘はただ、伝書鳩が飛んでくることを祈るほかないのです。
どうか、あの館で二人が再会し、鳩を飛ばして逃げてこられます様に—普段けして神を信じたりしない娘でしたが、今日ばかりはどうしても、神に、そう祈らずにはいられませんでした。
晴れた空には雲一つなく、ただただ途方もない青が広がるばかりで、娘はそうしてひたすらにいつまでも、空を眺め続けましたとさ。
おしまい
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