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インカ帝国を造った『インカの教え』

Buenos Dias!

新大統領の就任により、落ち着きを取り戻しつつあるリマから

挨拶を送ります。


14年住んでいるこのペルーで、

私にとって最も大きく国を揺るがす騒動だった今回のストライキ。

僅か六日間で大統領職追放となった

マヌエル・メリノ前大統領への反発が、今回のストの原因なのだが、

政治への不信、不満は昨日、今日に始まった問題ではない。

ではそれらがどこから来ているのかを

歴史を紐解きながら、書き留めてみたい。




ペルーって知ってる?

ペルーって知ってる? と、誰かに聞くと、

「あ!あの南米の細長い国ね!」

と思い、うなずいている方も大勢いると思うのだが、

あれは


『チリ』


である。


その細長い国にチョコンと乗っかっているのが


『ペルー』


なのだ。


ペルーと聞いてすぐに思い出すのは

「世界一行きたい観光地アンケート」で、

何年も連続で世界一に輝いている

冒頭の画像で有名な、


『マチュピチュ』


であろう。

見ているだけで、

「コンドルは飛んでいく」

が頭に流れてくる。


また乾燥したナスカ平野に広がる巨大な地上絵群、

『ナスカの地上絵』


世界一高い場所にある湖、

『ティティカカ湖』


初めて日本人でありながら他国で大統領になった

『フジモリ大統領』


またアンデスの恵みから生まれた、

200種類とも言われる『イモ』の数々、

(世界中に広がるイモはアンデスからである。

 大航海時代にスペインが持ち帰り、ヨーロッパへ)


他にも『マカ』『ノニ』『ウコン』『ヤコン』『チア』『キヌア』etc,,,

幾つも名産物がある。


マイナーと思われがちなペルーだが、

書いてみると結構知られているものがある事に気が付く。



エルドラド黄金伝説 ~マチュピチュ~ 

ペルーと言えばその代名詞は『マチュピチュ』。

これに異論をはさむ者はいないであろう。

しかしマチュピチュの歴史は意外と浅く、

インカ帝国時代の1,400年~1,500年代に建造されたと言われ、

日本では戦国時代と重なる。


この遺跡はクスコのアンデス山岳地帯の一角の

小さな山の上にあるため、スペインの侵略から逃れた。

その後400年の間、草木によって遺跡荒らしの手から守られ、

人目に付くことなく息を潜めていたのを

南米に伝わる伝説の都市エルドラド(黄金郷)を探しに訪れた

探検家の手によって約100年前に発見された。


たった500年の歴史のマチュピチュ遺跡が

何故これほどまでに有名なのかと言うと、

遺跡の保存状態が手つかずで最高レベルだったのは言うまでもないが、

そこへ至るまでの道程が大きく関係しているのだと思う。


マチュピチュへの道のり

日本から考えると、ペルーは地球のほぼ真裏。

最も遠い場所にある国なので、まずペルーへ行くだけで大変なのだ。

アメリカで飛行機を乗り継ぎ、最短で20数時間、

リマに着いてから、マチュピチュのあるクスコまで

更に国内線に乗り換えなければならない。

時間の許す旅人は、そこからバスに揺られ

15時間の苦行に挑む。

(今は道路も良くなり大分楽になったが、僅か10年前は酷い状況だった。)


そうしてアンデスの中腹にあるかつてのインカの首都クスコへ着くと、

立ちはだかるのは、約10%の確率でぶつかる高山病。

標高3,400メートルにあるこのクスコでは

多くの旅人が高山病の洗礼を受ける。

これをくらうと1日、2日、紫色の唇をして

締め付ける頭痛と共にホテルのベッドで

「ゥ~、ゥ~」と唸る羽目になる。


無事高山病をクリアーしたら、

そこからマチュピチュのあるアグアス・カリエンテ(熱湯の意)の街まで

列車に乗っていかなければならない。

山岳部を縫うように走る列車に揺られる事3~4時間、

何もなければ、やっと最終駅アグアス・カリエンテに辿り着く。

何もなければ、と言うのは、雨季は月1程度で土砂崩れが起き、

これに当たると、さらに2日~3日は足止めを喰らう。


そうして辿り着いた最終駅から、マチュピチュのある山頂までを

徒歩なら約1時間半、結構な山道を歩く。

バスもあるのだが、(15分くらいだったかな?)で

マチュピチュへ到着する。


息も絶え絶え辿り着いたマチュピチュのメインゲートを抜けると、

あの夢にまでみた、有名なマチュピチュの全景が目の前に

ばあああああんんん!!

と広がるのである。


これには感動する。

苦労した分だけ感動度は上がるし、

空気も水も最高においしく感じる。

そして近くの岩に腰を下ろし、ここまでの冒険を思い返しながら、

いや、人生を思い返しながら万感の思いでセルフィーするのである。


日本から高山病などの問題なしで突貫旅行で往復3日~4日。

問題込だと1週間~10日を費やすことになる。


このマチュピチュへの道のりは、

マーケティングを凝らして作られたディズニーランドのシステムが

自然に出来上がった驚きのレジャー施設なのだ。


ディズニーランドの場合は、

都心からいい感じで離れ、最寄りの駅からも歩かなければならない。

電車に揺られながら夢の国に思いを馳せる。

駅に着くと、流れる音楽と人の群れに、嫌がおうにも気分は盛り上がる。

そしてそこから歩く、歩く。

この夢の国までの道路は、少し傾斜がついて上り坂になっている。

心拍数があがる、つまりドキドキが人工的に作り出されるのだ。

そして回り道をしながら入り口まで来るのだが、

そう簡単にシンデレラ城は視界に入らない。

ゲートをくぐり、ショッピングエリアを歩いていると、

遠近法をふんだんに使ったシンデレラ城がだんだんと見えてきて、

エリアを抜けると、


ばあああああんん!!!


とシンデレラ城が視界に飛び込んでくる。

こうしてディズニーのドキドキの魔法にかけられて行くのだが、

あまりにも似すぎているので、

これはディズニーがマチュピチュから学んだのかもしれない。


日本人最多か?マチュピチュ6度登頂!

実は私はマチュピチュへはあらゆるルートで登頂すること6度。

これはガイド以外では、日本人最多登頂記録にならないだろうか?

日本から家族、友人が来るたびに

「マチュピチュへ連れていけ!!」

とせかされるので、あらゆる事を知り尽くし、もう殆どプロ並みである。

もしマチュピチュへ行きたい方がおられたら、ぜひ一報を。

ツアーよりも、自力で行けば費用も半額で済むし、

何よりも冒険感がいい。

このコロナ危機でそう簡単に計画は立てられないだろうが、

もし行ってみたいという方がいれば、

何かのお役に立てるかもしれない。

お気軽にどうぞ。


ペルー人の誇り

さて、話が横道にそれすぎたので本題に戻そう。

日本では

「私は織田信長の子孫だ」

とか、

「誰々の末裔だ」

とか、と言う話をよく聞くが、

ここペルーでは多くの人々が

「私たちはインカの末裔だ」

と思っている。

かつて世界一栄え、南米の広範囲を手中に収めたインカ帝国を

心の拠り所とするペルー人は多く、

クスコなどの山岳地方に行けば行くほど、その意識は強くなる。


ペルー人の違い、ラティーノの違い

一口にペルー人、と言っても、

彼らの容姿やバックグランドには大きな違いがある。

リマに住むペルー人(リメーニャ)と

山岳部に住むペルー人(セラーナ)で全く違うのだ。

当然ラティーノ同士も大きな違いがある。


我々アジア人と一口に言っても、

ベトナム人やモンゴル人と日本人は全く違う。

皆さんも、中国人、韓国人、タイ人、など、

同じアジア人でも違いがある事はお分かりだろう。


しかし渡航直後、14年前の私の目には、

みな同じにみえた南米人が、

今は、

“あ、ペルー人だな”

とか

“あ、チリ人だな”

とか、違いが分かるようになってきた。

スペイン語も国別のアクセントが分かるようになり、

違いの分かる男になりつつあるのだ。ニヤリ


例えば見た目で言うと、

チリ人は白人と黒人がはっきりと分かれる。

アルゼンチン人はまるっきりの白人のみの白人社会。

ボリビアはインディオ系。

ブラジルは黒人ベースの混血だ。

何故、国によってこんなにも違うのだろうか。


大航海時代

それは大航海時代に原因があるのだが、

1514年のマルチン・ルターの宗教改革によって

一挙に広まったプロテスタント運動。

これに肝を冷やしたのがバチカン・カトリックで、

「このままではヨーロッパはプロテスタントに占拠されてしまう、

 新たな開拓地が必要だ!」

とスペイン、ポルトガルが、カトリックの旗印と共に

未開拓地へ占領部隊を派遣していった。

いつ死んでもいいようにと、

刑務所から引っ張り出した犯罪者たちを船に乗り込ませて。

(言葉はキツイが分かり易く書くとこうなる)


有名なのはアメリカ発見者と言われた、


〇イタリア生まれのポルトガルの奴隷商人、コロンブス、


〇文字の読み書きが出来ないまま軍人となり、

 一攫千金を狙い欲望の赴くまま航海へ出た、

 スペインの欲深軍人、フランシスコ・ピサロ


 などだが、


このフランシスコ・ピサロによって1533年、

インカ帝国は滅ぼされる。


チリではインディオの大量虐殺と、

アフリカから大量の奴隷が連れてこられ、白人が入植。

アルゼンチンではインディオ皆殺しの後、白人が入植。

ボリビア、ペルーのインカ帝国民は、

スペイン人によって蹂躙され、混血していく。

侵略軍には多くの服役囚が含まれていたので、

インカ民に対してどのような事が行われたかは

Out of control 、火を見るより明らかである。


更に驚きなのは、

当時のコンキスタドーレス(征服者)達は

カトリックの神父達と共に航海に出たのだが、

スペイン王からは

『文字を書かぬ人々は殺しても構わない』


バチカンからは、

『神を信じぬ人々は殺してもかまわない。』

と特例を受けていた。


彼らにとっては、殺戮の歴史を書き残されて、

後世に復讐心を持たれては困るからだ。


それで縄の結び目を文字として利用していた当時のインカ民だったが、

書いて残す文字は持っていなかった。

そうして国から特令を受けていたコンキスタドーレス達は

南米で横暴の限りを尽くしたのだ。


もし日本へのフランシスコ・ザビエルの航海船が

難波せずに日本に辿り着いていたら、、、

日本に文字がなかったら、、、

今頃日本はスペイン語かポルトガル語を話していた可能性がある事を書き加えておこう。

(当時の日本は戦国時代で、しっかりと文字を書き、

 大名のもとに各地方がしっかりと統治されていた事に、

 アジアには猿しかいないと思っていたカトリックの神父達は度肝を抜かれ

 ジパングは凄い!と驚きの手紙を送っている)


そして侵略軍はインカの金を奪えるだけ奪い、

先述したアンデスの農作物と共に

スペインに持ち帰るための港を造り、それが現在のリマとなった。

16世紀、貿易により世界一栄えていたのはこのリマである。

(これらの記述はリマにある神学校の修士課程、キリスト教世界史で学んだものである。目から鱗の授業でした)




ボリビアは山の中にあるため、

混血はしたがそれ以上は混ざらず、インディオの血は色濃く残った。


ペルーの山岳部、アンデスの子孫達は、

ボリビア人と似た体躯をしているのに対し、

港町となった沿岸部のリマの人々は

外来船の訪れと共に、混血が更に進んでいった。


なお、リマから南へ4時間下った海岸線の街、

「チンチャ」は黒人が多く住む街があり、

コンキスタドーレスが連れてきた奴隷達の子孫が住んでいる。


そうしてこれが現在のペルー人である。

ペルー人の中にも大まかな考え方の違いがあり、

アンデスのインディオ系は白人や外国人を嫌う傾向にある。

クスコでも観光客にお金を落としてもらわなければならないので

表向きはニコニコしているが、腹の中では別の事を考えている。

“外国人によって我がインカ帝国は滅ぼされたのだ”、と。


リマに住む人たち(リメーニョ)は、自分たちを都会人だと認識していて、

特に白人の血が混ざっている人々は自分はスペイン人の子孫だ、と言い、

田舎に住む人、特にインディオ系の人々を“セラーナ”と呼び、

区別しながら差別をする。


「占領する者と、される者」、

「王様と奴隷」、

「金持ちと貧乏人」、

スぺインがもたらしたこのシステムは、

悪い意味でしっかりとこの国に根付いている。


リマは人口1千万の大都市で、

インフラが整っていないところはまだまだあるが、

オフィス街もあるし、一部分を切り取ってみれば

第一世界とそんなに変わらない。


しかしアンデスでは今も電気、水道がなく、

ネット環境がない集落もたくさんあり、

日が昇れば起き、沈めば寝る、生活をしている人達がいる。

仕事は土地が豊かなので、植物は種を蒔けば

放っておいても芽を出し実をならせる。

これを収穫し、食べるには困らないだけの生活をしている人達がいる。

土から離れつつある日本人にとっては、

返って羨ましい楽農ライフに映る。


『インカの教え』

さて、思いつくままに書きなぐってきたが、

様々な背景からなるペルー人達の共通の意識は、


『悪いのはスペインで、悪いものを持ち込んだのはスペインだ』

であるが、

確かにこれは間違いではない。

インカ帝国にはかつて三つの鉄の掟があった。


1、Ama Llulla (アマ ユヤ、嘘をつかない)


2、Ama Sua (アマ スア、盗まない)


3、Ama Quella (アマ ケヤ、怠けない)


この掟は絶対で、これを破れば打ち首獄門であった。

だからインカ帝国には嘘つき泥棒がおらず、

平和に治められていたのだ。


しかし、ここにインカ民にとって前代未聞の犯罪者集団

コンキスタドーレスが銃器を持ってやってくる。

当時のインカには伝説があり、

『神の使いは白い生き物に乗ってやってくる』

と信じられていた。

ここへフランシスコ・ピサロが

白い馬に乗って到着したものだから、さあ大変。

「白い人が、白い生き物に乗ってやってきた!!神の使いだ!」

と大騒ぎになったのである。

これに付け込んだピサロは、インカの民を騙しに騙して

金を集めまくった。

嘘をつく習慣のなかったインカ民の心理を利用し、

金を搾り取り、身ぐるみ剥がしてインカの王を殺したのだ。

人々が気付いた時にはもう手遅れで、

指導者の死と、コンキスタドーレスの持ち込んだ新病

「天然痘」

の伝染で、帝国は崩壊していった。


全てはスペインのせい?

だからペルー人に、

「何故、国が安定しないのか」

「何故、こんなにも詐欺が横行するのか」


と聞くと、

「それはスぺインが悪い。

 スペインがインカ帝国を滅茶苦茶にし、

 それから嘘をつくのが当たり前になったからだ」

と真顔で返事が返ってくる。


確かにそれは間違いではないのだが、、、


しかし、それは500年前の事で、

今あなたが嘘をついたのはスペインのせいではなく、

あなたが悪いのでは?、、、


こちらでは騙す方よりも騙される方が悪い、と考えがちだ。

確かにそうだが、はっきり言おう、

騙す方が悪いのだ。


こうしてインカの教えを失ってしまったこの国は、

今荒れに荒れている。


この三つの教えは本当に大切である。

我が愛する祖国、日本はどうであろうか。

かつて日本人の心の中には、

『嘘をつかない、盗まない、怠けない』

の精神があった。

家で教え、学校で教え、

日本人の身には、自然とこの教えが身についていたのだ。


いわば、当たり前の事なのだが、

当たり前の事を当たり前に出来ていたから、

落とした財布や携帯が手元に戻ってくる、

世界で唯一の国だったのだ。


私の産まれ育った本州最北端 Apple Land は、

昔は出かけるのに、家に鍵は掛けなかった。

また近所に、

「しばらく留守にするので、よろしく」

なんて声をかけていたりした。


それが今ではどうだろうか。

ニュースを見ると、


「鍵をかけないで寝ていて目を覚ましたら、

 知らない人が上に乗っていました」


「息子から、事故に遭った、助けてほしい、と電話があったので

 振り込んだら騙されました」


「従業員が落とした食材を鍋に入れ調理しているSNSを見て

 “こいつバカか”、と思っていたら、さっき食べに行った店でした」


「原発が爆発し放射能が漏れている可能性がありますが、

 ただちに影響はありません」



とか、、、


ちょっと、どうなってしまったんだ? 我が祖国日本は!

胸を張って、

「私の産まれ育った国、日本は素晴らしい国です!」

と自慢できなくなってきているのが悲しいのだが、

それでも他国に比べれば、

良いところは沢山残っている。


この三つの教えには、国を建て上げる力がある。

インカ帝国が嘘をつかず、盗まず、怠けずに南米を治めたように、

日本人が戦後の焼け野原から必死に働いて立ち上がったように、

当たり前の事を当たり前にやり続けたら、

結果は必ず良い方向に向かうのだ。


正直者がバカを見る、なんて言葉があるが、

そうあってはならない。

これは正直に生きた結果、

最後は正直者がバカを指さして笑う、

と言う意味だと信じたい。


インカの教えに返れ!!

だから私はペルー人に、

「インカ帝国の三つの教えに返ればいいじゃないか!!」

と言い続けている。


今回の動乱も、


「政治家が悪い、大統領が悪い」


と言うのは簡単だが、


「じゃあ、その政治家を選んだのは誰だ?


 大統領を選んだのは誰だ?」



「そんな事言ったって、私は投票していない」


と言う人もいるが、それは責任を放棄しているのだ。


そして僅かな袖の下に心を動かされ、

国民が政治家に票を売り続けてきた結果が、

今回の動乱の原因なのである。


私は第二の故郷のこの国がどうなったら良くなるのかをいつも考えている。

それにはこれしかないと思う。


『インカの教えに返れ!!』


これを是非、家庭で教え、学校でも教えて欲しい。


では、もう一度。


1、Ama Llulla (アマ ユヤ、嘘をつかない)


2、Ama Sua (アマ スア、盗まない)


3、Ama Quella (アマ ケヤ、怠けない)


もしあなたが子供達と接する機会があるなら、

是非教えて欲しい。

もう一度、嘘をつかないことを教え、

住みよい日本を次の世代に遺そうではないか。


最後まで読んでくれてありがとう。



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