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私の内側に潜む差別的感情

さて数日前の記事に中南米では、

「アジア人は全てチーノ(中国人)と呼ばれる」

と書いた。

これに対し私は

「私は中国人ではない。日本人だ」

と返事をしてきた。

そうすると、

「だからチーノだろ?」

と言われる。


「チーノ」

彼らの言うチーノ、

直訳は中国人だが、

中国人だけを指しているのではなく、

アジア人全体を指しているのであり、

日本と中国の歴史的な関係を理解して、

日本人に意地悪をしてやろう、と思い

「チーノ」とい言っている訳ではない。

ただアジアンフェイスだから

「中国人」

と呼ぶのである。

しかし言われたこっちは気分は良くないので、


「ペルー人のあなたが、誰かから

“おいチレーノ” (チリ人)

と呼ばれたらどういう気がする?」


すると大概は、


「冗談じゃねえ!あんな卑怯で臆病者の奴らと一緒にするな!」


と答える。笑


「じゃあ日本人の俺が他国籍名で呼ばれた気持ちが分かるだろ?

お前はペルー人。チリ人ではない。

俺は日本人。中国人ではない。」


ここまで話してやっと


「そうか、それもそうだな。お前はハポネス(日本人)だ。」


と解って貰えるのだ。


ぺルーとチリは歴史的に日中韓とような似たような関係にあり、

国境をめぐり、取った取られたを繰り返してきたのである。


だが何故私は 

“チーノ”

と呼ばれると良い気分がしないのだろうか。

それは私の中にも中国人を見下している

「差別」

があるからなのだ、と言う事に気が付かされる。


私は差別主義者ではない。

中国人を目の敵にしている訳でもない。

しかし残念だが日本で育つ中で、

中国、またアジア諸国を見下す目が知らないうちに育っているのだ。

だからこういう感情が出るたびに自戒する。

決して誰も侮ってはならないし、見下してはならない。

何故なら誰でも必ず自分よりも優れた部分を持っているからだ。

『へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

有名な聖書の一節である。


アジア諸国への差別

大戦時の日本は、

「欧米諸国と肩を並べ交渉するには大東亜共栄圏構想を実現させなければならない。」

そのためには文明の低い中国人、朝鮮人を犠牲にするのはやむを得ず、

という意識の元でアジアを手中に収めていったのだが、

(私は戦後教育のように、戦争は日本が悪かった、と白黒で言うつもりはない。戦争に踏み切らねばならなかった日本を取り巻く環境や、開戦を望んだアメリカの存在、戦後、アジア親日国から日本への感謝の言葉、etc,,, 色々な側面があるので一概にどうこうは言えない。勿論人が死ぬのには反対だ。)


この戦前、戦中の教育の中で、

日本は神国であり、他アジア諸国より優れているから、

アジアを治めるのは当然、

という意識が国民に刷り込まれた。


また戦後の立ち上がりも見事で、

2発の原爆を喰らい、

全土を爆撃され、焦土と化したこの国が

奇跡と呼ばれた復興を遂げ、

戦後僅か30年でアジア諸国のみならず、

ヨーロッパ諸国をもごぼう抜きにし、

アメリカに次いでGDP世界第2位の経済大国へと発展した。

日本はテクノロジーの最先端をはしり、

世界最高品質の物を造る、素晴らしい国だ、

そこに生まれ育った我々日本人も素晴らしい国民だ、

と日本人は今も信じて疑わない。


素晴らしい国民性

日本人といえば、

勤勉、誠実、忍耐、、、

個人で見ると勿論おかしな人もいるが、

国民全体でみると、素晴らしい民族だと南米に住んでいて思う。


春の花粉フェスティバルに、

夏は台風の通り道で滅茶苦茶にされて、

秋の紅葉でホッとしたかと思いきや、

冬将軍の到来で雪害に悩まされ、

年を通して地震と背中合わせで、、、


次から次へと休みなくやってくる自然災害に立ち向かい、

倒れても倒れても立ち上がろうとする、

凄い人たちだと思う。

災害の中でも規律を忘れず、暴動すら起きない。

恐らく日本だけだろう、大震災の中、

1本のボトルウオーターを貰うために列を作って待てるのは。

こっちなら即暴動、略奪、焼き討ち、である。

まあ、災害が無くても暴動はしょっちゅう起こっているが。笑


素晴らしい国民性だと思うのは良い事だが、

素晴らし過ぎて周りが自分より劣っていると考えるのが問題なのだ。



変わる世界、変わらない意識、

しかし、一歩外へ出てみるとどうだろう。

あの奇跡の戦後復興から90年前半のバブル崩壊から25年たって、

世界は大きく変わった。


日本人が見下している中国のGDPが、

日本を抜き2位へと躍進、

最新テクノロジーの分野は完全に中国に持っていかれた。

電子機器もパソコン、携帯電話、

中国製品の進出が凄まじい。


私は2007年の渡航時の携帯はSonyを使っていた。

当時の中国製品は明らかに質が悪かった。

しかしあれから13年経ち、私の携帯はXiaomiである。

こちらで中古の携帯を売り買いしていた事もあり、

良く使い比べていたのだが、

今や中国メーカーの携帯電話は日本のメーカーと比べて遜色はない。

そして値段は半分から3分の1で買える。

日本メーカーで10万円クラスのものが、

中国メーカーなら3万ちょっとで買える。

そうしたら誰が日本製を買うか?っていう話しだ。

実際、世界の携帯シェア率は、

1位 Samsung 21%(韓国)

2位 Huawei 17%(中国)

3位 Apple 14%(アメリカ)

4位 Xiaomi 10%(中国)

5位 Oppo  8%(中国)

中国+韓国で世界の56%を占めているのだが、

もう日本の影すらない。

(内部の電子部品の一部は日本製、と言う声も聞こえるが、それは今回は置いておこう)


実際、2007年にペルーへ渡航した時は、

空港や街中にもSonyの広告を多く見ることが出来たのだが、

それから13年、ほぼ全ての南米の国々を周っても、

日本メーカーの広告を目にする事は少なくなってしまった。

これに取って代わったのがSamsung。

何処の国際空港へ行っても大都市へ行っても、

Samsungの広告は目に飛び込んでくる。


それがお前らのやり方か

世界中の企業が人件費の安さに惹かれ、

中国に工場を造ったことにより、

あらゆる分野の最先端技術が中国の手に渡った。

中国メーカーはそれを丸々コピー、

著作権お構いなしで次々と模造品を作り出し

世界中で売りに売っている。

なんたって国が技術を盗むことに目を瞑り、

ひたすら自国の成長を求めたので当然の結果である。

日本のように著作権が、とか、

道徳心が、とか、

そんなものは金を稼ぐのには関係なし、

と言うのが彼らのやり方である。



車も新幹線もあらゆる技術もそうである。

今中南米には中国産の車が大量に入ってきてる。

まだ世界の TOYOTA、NISSANにブランド力は残っているが、

新車で150万の日本車と80万の中国車では、

以前は安かろう、悪かろうだった中国車が、

今では安かろう、まあまあだ、に変わってきていて、

街中でも多くの中国車を見かけるようになった。

あなたならどちらを選ぶだろうか。

南米では中国車が選ばれ始めている。



小日本

こうして成長した中国には、

純資産100万ドル以上所有する人が440万人いる。

440万人って、、、、

京都府の人口が250万人、名古屋市が230万人、

2つを合わせた全員が純資産1億円以上保持しているって、

凄い数だ!日本とはスケールが違う。

それに13億の人口、

どうやってもこのままでは日本には勝ち目はない。


中国人は国策で日本を敵視して育てられるのだが、

日本を「小日本」と呼ぶように教えられ、小馬鹿にする。

毛沢東政権下の貧しかった時代は、

日本を悔しさの混じった皮肉を込めて

「小日本」

と呼んだのだが、

現在中国からみた日本は、

文字通り小さく見えるのだろう。


言いたくはないが、GDP、世界への影響力で我々の上にいるこの中国を

何故いつまでも見下しているのだろうか。

冷静に状況を判断し、彼らから学ばなければならないのではないか?

かつて日本は技術者を先進国に送り、

学ばせて新しい技術を習得し、

日本に持ち帰っては、それを改良し、

さらに良いものを産み出し輸出していった。

そしてアジアの国々は日本と同じように、

日本にやってきては日本から良いものを学んで持ち帰り、

国の発展へと繋げていった。

学ばなければ発展はないからだ。


しかし今はどうだろうか。

アジア諸国は同じように世界中から学び続けているが、

日本は?

教えることが当たり前になり、

アジア諸国を見下す意識は我々の根っこに染みついている。


私にはミャンマー人の友人がいる。

今覚せい剤の輸出で有名になりつつある、

ガチン族の出身だ。

彼は18歳で裸一貫で日本にやってきた。

学生ビザで入学し、コツコツバイトをし学資金をため、

車修理の専門学校へ進む。

当然バイトは続けながら一生懸命学び、

卒業と同時に車の修理工場へ就職。

26歳になった彼は、六畳一間のアパートで節約生活を送り、

更に修理技術の習得と、開店資金をため、

今は母国へ帰り修理工場を建て、

中古車の輸入も行う立派なビジネスマンに成長した。

あなたはミャンマー人、と聞くとどんなイメージを持つだろうか?

あまり良いイメージは湧かないと思うのだが、

こんな頑張り屋の青年がいる。


逆に日本人で他国に行ってバイトをし、

人種差別に耐えながら言葉を習得し、

自力で大きなビジネスに発展させていく若者がどれだけいるだろうか。

凄い生命力、人間力だと思う。


彼のような世界に通用する若者を育てていかなければならないのだが、

残念ながら今の教育のシステムでは厳しいだろう。

色々アイデアはあるのだが、またの機会に書きたいと思う。


『人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

私のなかにあるアジアに対する差別的な視線。

外国に住むことでこれに気付かせてもらったのは感謝な事だ。

いつまでもどんな人にも自分よりも優れている部分は必ずある。

『へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』

このことばの通り、いつまでも人から学び、

今日も成長したいと思う。

最後まで付き合ってくれてありがとう。

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