【6冊目】 かのように / 森鴎外
人の影のないフライデーナイトです。
店を休業にして早3日が立ったわけですがね。なんでしょうね。やるべきことはたくさんあるのに、まるで切迫感がないというか。私なんていうのは、油断するとすぐに「ストイシズムこそ美の極致」みたいなマインドに入ってしまって、積極的にマゾヒズムの枠に身体をぎゆうぎゆうと押し込めていくきらいがあるんですがね。やはりその切迫感の鞭でもって尻を叩いてあげないと、私のような人間はもうダメなのかもしれない。燃え尽きてしまうのかもしれない。ただ、最後に私がやるべきことはある。やらねばならぬことを私は知っている。そう。月初のお決まり。ウィグタウン読書部ですね。
というわけで、先月の課題図書は、森鴎外の短編『かのように』ですね。鴎外に決めたのも、あるお客さんと話している時に飛び出した「鴎外ほど、知名度と実際に読まれている作品数に乖離がある作家はいない」との発言でしてね。その通りだなと。まぁ『舞姫』ですか。『高瀬舟』ですか。『山椒大夫』ですか。『渋江抽斎』ですか。せいぜいそんなもんですよね。ちょっと話は逸れますが、私の大好きなエレカシの曲に『歴史』という曲があるんですがね。これはまさしく鴎外の人生を歌った曲なんですよね。歌い出しから少し歌詞を引用してみようと思うんですが「歴史 青年期あらゆる希望を胸に いきり立って人に喧嘩 ふっかけた鴎外 以後 官僚として 栄達を望み ドロドロした権力闘争にも身を置いた 鴎外」なんてね。すごいいい曲なんですよ。私大好きですね。まぁ今回のとは関係ないですが。その曲中に『山椒大夫』も『渋江抽斎』も出てくるわけなんですが、読んではいない。確かに私は鴎外をほとんど読んでいないんですね。これはやらねばならぬだろうと、先のお客さんならオススメを伺ったところ、今回の『かのように』という短編に至ったんですね。読んだいまとなっては、まぁ、なんちゅう本を進めてくれてんねや、いう気持ちですがね。しびれますね。以下、いつもと同じく【ネタバレ注意】になります。注意してくださいませ。
さて。
これは本筋に入る前に、日本人の宗教観についてちょっと話す必要がありますね。
あなたは他人に「あなたの宗教は?」と問われたら、なんと答えるだろうか。多くの方は「無宗教」と答えるのではないだろうか。我々日本人の多くは宗教を持たない。ただし、それは「信仰を持たない」という意味ではない。寺社仏閣に手を合わせたり、世界平和を祈ったり、日頃の行いを気にしたりする。神仏を習合して自分たちのオリジナルの信仰というものを育ててきたわけですね。それらはすべて、「生活様式」や「習慣」というレベルにまで浸透していっていて、多くの人はそれについてあまり頓着することもない。さぁしかし。その無頓着さはある意味危険ではないですか。「宗教」と「信仰」、そして「政治」について、我々は少し目を向けるべきではないですか。さて。読んでいってみましょう。
例によってここからは完全に【ネタバレ注意】です。ご注意くださいませ。
私、この『かのように』というタイトルを、読む前までは「このように」だと思っていたんですね。ただ、実際に読んでみると「恰も〜である "かのように"」と。つまりは「as if 」の「かのように」だったんですね。ドイツ語で「als ob」、フランス語で「comme si」、「まるで〜である "かのように"」ということで、文字通り『かのように』ですね。まずはそこを先に言って読んでいくことにしましょうかね。
まず、私がこれを読んで一番に感じたのは「なんてことを言うんだ」という感想である。既存の宗教や政治に対するアンチテーゼというか、イデオロギーの破壊(或いは全く新しいイデオロギーの創造)が行われているように感じ、なんというか「それを言っちゃあお終ぇよ」という、我々が意識無意識とに関わらず持っている「政治宗教」の根幹をひっくり返してしまうような衝撃があった。詳しく話していこう。
話を一言でまとめると「世界の真理に気付いてしまった学生の話」である。
学生は卒業論文に着手したあたりから目に見えて青い顔をし始めた。この頃から、「かのように」の真理に気付き始めたのだろう。ならば、そのきっかけとなる学生の専門分野はなんだったのか。作中に表れる学生の卒論タイトルは「迦膩色迦王と仏典結集」である。迦膩色迦王についてはまるでよく知らないが、巻末の注釈によると「古代インドの王で、仏教を保護し、教典の整理統一事業を行った」とある。ふーん、という感じである。なるほど(理解していない)という感じである。では、学生が他にどのような勉強をしていたかというと、これは少しく厄介ではあるが、重要だと思うので羅列してみると「イタリアのルネッサンス」「ルターの宗教改革の起源」「民族心理学」「神話成立」「実用主義の哲学的地位」「フリイドリヒ・ヘッベル」「寺院史」「教義史」「アドルフ・ハルナックによるキリスト教会史」など、とにかく雑駁な学問に手を出している。しかし、私がこれを重要というのは、これらの学問を学んだ学生が気付いた真理が「イデオロギーの破壊」だからである。ルネッサンスも、宗教改革も、神話の成立について学ぶことも哲学について学ぶこともしてきた学生が、それらは全て「かのように」によって破壊されてしまうということに気付いたのである。
学生の得た真理を端的に文章化している箇所が、この小説には2箇所ある。1箇所はラスト、学友との剣呑な言い争いのシーンであり、もう1箇所はベルリン留学時に父に宛てた「ハルナックについての手紙の概要」と、その手紙を読んだ父の煩悶である。この手紙の内容を読んでみると、彼が如何に「政治と宗教」について考えているかが分かる。宗教は政治を支える上で重要な学問であり、そこに実際的な信仰は必要ない。「信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている」とまで言っている。これはまさしく「かのように」ですよね。彼の父親もこの立場を支持して、形骸化する神事や祭に違和感を抱く。それを危険と思いながらも、煮詰めていくことで、彼の思想はどんどん強固になっていき、そして、その想いが炸裂するラストの学友との議論のシーンへと続く。
このシーンで象徴的なのは、「かのように思想」に絡めとられている学生は青い顔をしているのに、その学友は豪放な様を見せているところである。この2人は意識的に対照的に描かれている。学生は「かのようにという怪物」のことを考えているが、学友は「怪物のことを認めた上で、その怪物については考えないことにする」と言い放つ。「考えずに書けばいいではないか」と勧める学友に対して、彼は「そんなことしたら危険思想だと思われる」と返す。この辺りのやり取りは非常にヒリヒリして心地よいものですね。相手の言うことを否定せずに、それを肯定するにはどう言う理屈を捏ねなくてはいけないかを、お互い尊重してやりあっている。議論とは斯くあるべきやという感じがしますね。学生は「かのようにを尊敬する以外に筋は通らない。私の立場だけが唯一である」と口舌を振るう。それを受けて学友が「その立場は認める。ただし、それを体現することは不可能だ」とする。2人の立場は明快で、どうしようもない、遣る瀬のない雰囲気が2人を支配して、物語は終わる。
さて。
宗教と政治、神話と歴史について論じている彼であるが、これというのは、日本における「皇室」の存在をも疑問視するものである。これはとてもナイーブに扱うべき問題であるし、その「ナイーブに扱うべき」という配慮自体が、「かのように」思想によって論破されているような気持ちにもなる。私が「イデオロギーの破壊」という言葉を使ったのは、そういう意味においてである。そして、その「イデオロギーの破壊」について、こちらがとるべき態度は、全くもって彼の父が取った行動と同じである。学友の意見と同じである。つまり「この問題は手の附けられぬものだ」という意見。「なるたけ思わないようにしている」という立場である。触らぬ神に祟りなしである。しかし、彼はというと、そこにべたべた触ってくるわけだから困る。いやぁ困る。こういう思想には蓋をしておかないと困る。根幹が揺らぐから困る。困るから、我々は「ある"かのように"」振る舞う必要がある。「かのように」。これが大切なのだ。その認識を皆が共有し、疑いを持たずにいることが、社会生活を送るということなのだ。宗教ということなのだ。政治ということなのだ。
さぁ、最後に一つ。我々は考えなくてはならない。彼が信奉した「かのように」に、我々はどのような決着をつけられるだろうか。学友がそうしたように「なるたけ考えない」とする以外になにか方法はないだろうか。いや。ないですね。かのようには万全ですが、それ故に、いまの社会を、宗教を、政治をひっくり返してしまう。歴史と神話と嘘と本当とを一元にすることは、あまりに、あまりに恐ろしいことだ。と。思いましたね。これからも生きていきましょう。目的や道徳があるかのように。
さぁ、そんな我々の生命を脅かす、今月の課題図書は、みんな大好きカミュの『ペスト』です。もう、これ以外の選書はないですね。『ヴェニスに死す』とか、デフォーの『ペスト』でも良かったんですが。カミュは『異邦人』をやりたかったんですがね。まぁとにかく。今作から、昨今のウイルス騒動の末路を想像してみるのもいいものですね。読んでいきましょう。
(posted on Facebook on the beginning of April)
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