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【一口法話】本物の人生とは。歎異抄に導かれて

今年の七月に、作家の高史明(こ・さみょん)さんが、老衰でご往生されました。高さんは、仏教書の『歎異抄』を深く読み込まれた方で、『歎異抄』にまつわる執筆を数々となさっています。

『歎異抄』とは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の言葉が記されているとされる書物です。そこには、私たちの常識が覆されるような、鋭く深い言葉の数々が記されています。

高さんは、『歎異抄』に書かれた親鸞聖人の言葉が、自らの人生を揺るがすような言葉として響いてきたきっかけがあるそうです。それは、息子さんとの死別を通してでした。

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高さんには、正史さんというお子さんが一人おられました。その正史さんが中学生になった時に、高さんは3つのことを伝えたそうです。

一つ目は、今日から君は中学生になるんだから、自分のことは自分で責任を取りなさいということ。二つ目は、他人に迷惑をかけるなということ。三つめは、自分のことが自分で責任を取れて、他人に迷惑をかけなければ、お父さんは君に何も言わない。自分の人生だから、自分の責任で生きていきなさい。

そういうことを、高さんは息子の正史さんが中学生になった時に伝えたそうです。しかしその後、正史さんは自らいのちを断ちます。高さんは、自ら送った言葉が息子を死に追いやったのではないかと、後ほど振り返ってみて思うようになったと言います。

「自分のことは自分で責任を取れるようになってほしい」「他人に迷惑をかけない子に育ってほしい」。こうした「立派な人になってほしい」という思いは、親は少なからず子どもに対して抱くものかもしれません。

それは、こうした心がけが、生きていく上で大事なことだと自分自身も思うからこそではないでしょうか。大事なことだと思うからこそ、子どもに伝えたいという思いも湧いてくるものでしょうね。高さんも、「自分のことは自分で責任を取り、他人に迷惑をかけない」ということが、自分の生き様でもあったと語っておられました。

そして、息子の正史さんが、中学生という大人の階段の入口にさしかかった時に、高さんはこの3つの言葉を正史さんに送りました。しかし、その言葉によって、息子を死に追いやったのではないか。高さんはそのように思うようになります。そして、息子の死を通して、「これまでの自分の生き方や考え方は、本当に正しかったのだろうか」と、問い直させられていったと言います。

正史さんが亡くなり、高さんは悲しみに暮れます。そして、息子のために何かできないかと、息子の供養のためと思って、「南無阿弥陀仏」という念仏を何度何度も紙に書いたそうです。最愛の子を亡くし、いたたまれない気持ちだったことでしょうね。しかし、そうしている時に、『歎異抄』に記されている親鸞聖人の言葉が、高さんの目に入ってきます。

「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」

「親鸞は、亡き父母の追善供養のためと思って、念仏を申したことは、いまだ一度もありません」

(『歎異抄』「第五条」)

高さんは、「もはや息子とつながるには、向こうにいる息子に、こちらから供養することでつながるしかない」、そういう思いで念仏をしていたと言います。しかし、『歎異抄』には、「親の供養のためと思って念仏をしたことは一度もない」と書かれているのですね。高さんは、この言葉を見て驚いたそうです。

「では、いったい念仏とは何なのか」「親鸞という人は、なぜそういうことを言ったのか」。高さんは、親鸞聖人の思いを尋ねようと、『歎異抄』を深く読み込むようになります。

親鸞聖人はなぜ、亡き父母の追善供養のためと思って念仏をしたことがないのか。『歎異抄』の続きには、その理由が記されています。

「そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)・兄弟なり」

「その理由は、全ての生きとし生けるものは、何度となく生まれ変わり死に変わりする中で、父母であり、兄弟だったからです」

全てのいのちはつながっていて、何度も生き死にを繰り返す中で、時には親子となり、兄弟となってきた。目の前にいる知人も、遠くにいる名前を知らない人も、昆虫や植物さえも、父母兄弟のような存在である。こうした他者と自分とを、関係のない個別の存在として見るのではなく、つながりがあるのものとして見ていくような大きな世界観が、ここに示されています。

高さんはこの言葉を見て、「では自分は、全てのいのちを父母、兄弟と等しいと思えているのか」という問いを、突き付けられたと言います。

昆虫や植物を見ても、自分の父母とは思えない。それどころか、肝心な我が子をも、果たして本当に我が子として接してきたのか。そういう問いを、高さんは突き付けられたのかもしれません。

「正史さんに対して、本当はどのような言葉をかけてあげると良かったと思われますか」という質問に対して、高さんはこのように答えておられました。

「自分のことは自分で責任を取れという前に、ここまでくるのにどれだけの人のはたらきを頂戴したか。どれだけの生き物のいのちを頂戴したか。他人に迷惑をかけないということよりも、他人のおかげというものが先にあるんだ。そのことが分かってはじめて、他人と一緒に生きられる私になれるんだ。そうなった時に、本物の人生が始まるんだ」

「息子が中学生になった時に、私はそう言うべきだったんですね」と、高さんはおっしゃっていました。

自分で責任を取り、人に迷惑をかけないという生き方は立派です。そうありたいという思いは、私にもありますし、誰しもあるのではないでしょうか。

しかし、高さんの言葉を受けて、改めて考えてみれば、自分が今あるのは自分の力だけではありませんし、誰にも迷惑をかけずに生きてきたとはとても言えません。今も日々、家族をはじめ、色々な方のお世話になりながら、生きていることに気付かされます。そこから、他者に対する「ありがとう」という感謝の思いや、思いやりの心も生まれてきます。

高さんの言葉から思うのは、今自分があることの背景に、多くのおかげさまがあることを忘れた時に、人は「自分の力で生きている」と錯覚してしまうということです。そして、人は本来、支え合い、助け合い、励まし合い、手を取り合って生きていくものだという前提を忘れてしまいます。

「自分の力で生きている」という思いは、ともすれば人を傲慢にします。例えば、「自分が良ければ何をしても良い」というような自己中心的な考え方や言動をするようになります。また、悩み苦しんでいる人に対して、「何で悩んでいるのか理解できない」というように、他者の思いや状況を理解しようとせず、その人を切り捨てるようなふるまいをするようになります。

自己中心的な考え方や言動をする人が増えていくと、非常にギスギスとした生きづらい世の中になっていきます。そして、人と人とのつながりが失われ、社会から個人が孤立していきます。こうした自己中心的、個人主義的な考え方が、近現代における問題であると、高さんは捉えているのではないかと感じました。

そしてさらには、その自己中心的な考え方が、他でもない自分自身の中に刷り込まれていて、そのことにおかしさすらも感じない。だからこそ他者に対して、「他人に迷惑をかけず、自分の責任で生きていきなさい」というような態度をとってしまう。自分自身もそうあらねばと思ってしまう。

そうした生き方やいのちの捉え方の誤りを、高さんは『歎異抄』の言葉と正史さんの死を通して、問い直させられたのではないでしょうか。そうした高さんの言葉を伺いながら、私自身もまた、生き方、あり方を問い直させられる思いが致しました。

「他人に迷惑をかけず、自分の責任で生きていきなさい」という言葉は、「あなたには干渉しない」「自分一人で生きていきなさい」という言葉でもあります。それは、家族のつながりや、友人とのつながりなど、一切のつながりを断って生きることを強いるような響きを持っています。

多くのおかげさまを忘れることで、人は傲慢にもなり、他者への思いやりや、つながりを失い、孤立していきます。それによって、生きづらい世の中となっていきます。

また、高さんは供養に関しても、このように語っておられました。

「生きとし生けるものを親兄弟のように思えないような私を問わずして、子どもの供養ができるか。念仏とは、そのようにいのちのつながりを見失っているあなたに対する阿弥陀仏の問いかけですよというのが、親鸞聖人の思いだったんですね」

私たちがいただいているこのいのちとは、計り知れないほどの縁によっていただいたもので、多くのおかげさまによってあるものです。そのことに気付かせようとするはたらきが、念仏であると言われます。

その念仏を、供養の手段として用いているのでは、本当の供養とはなっていかない。大切な方との別れによって、念仏に照らされ、いのちとは何かに気付かされていく。その中で、別れた方とも出会い直し、それが本当の供養ともなっていく。そのようなことを、高さんの言葉から感じます。

いかがだったでしょうか。『歎異抄』の持つ世界観は、とても奥深いものがあります。それを短時間に要約する難しさがあるので、取り上げるかどうか正直悩みました。

しかし、いつもご覧くださっている皆様なので、きっとその内容を受け取ってくださり、ご自身の中でさらに深く味わってくださるのではないかと思い、共有させていただきました。

どのように受け止められたのか、またご感想なども是非お聞かせください。

◆参考資料
・NHKこころの時代 歎異抄に導かれて
https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/KQ9XVVMLP6/


合掌
福岡県糟屋郡 信行寺(浄土真宗本願寺派)
神崎修生

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