#だれもが文化でつながる国際会議 短期集中キャンプ「共鳴する身体」を振り返ってみて
改めて,振り返ってみると,事務連絡等のチャットにてやりとりしているかつ,他のチームの作業を目に入りながらも,ひたすら自分の作業に夢中になったのが久々だったかもしれないという話.
某短期集中キャンプに参加し,そこで共同制作して作品を展示するという内容だったが,実は結果的に初めてメディアアートデビューすることに至ってしまったのはいうでもない.
この楽器制作をテーマとするワークショップになんで参加したのかって聞かれると,ほぼノリで決まったようなもんとしか回答できないかもしれない.
いや,ちゃんと回答できるんだけれど,この人は何を言い出すんだと思われるかもしれない.
一旦回答をまとめよう.
まず,大学2年次ぐらいまでは人工内耳を装用していたが,過去の記事でも触れたように,
音への解像度は実はそこまで高くないのではと気付いてから,計算機が創り出す音の世界観にそこまで浸かりたくないなと違和感を覚えるようになってから人工内耳を装用しなくなってきた.
だからと言って,それまで人工内耳を装用してきて,「SEKAI NO OWARI」の天使と悪魔,「Galileo Galilei」の「僕から君へ」などを好んで聴いてきた私を否定するつもりはないし,今も人工内耳を装用している友達なども否定したくない.
ただ,幼児のときに埋め込み手術を受けさせるかどうかのインフォームドコンセントの部分に侵襲性が潜んでいる技術倫理があることを考慮してほしい.これだけは何度でも言う.
また,最近は触覚提示関連研究開発プロジェクトに携わっているのもあり,音への解像度と触覚提示への解像度をいかにリンクさせていくのだろうかと考える機会も増えてきた.
詳しくはもう既に研究されている部分でもあるので,各自サーベイしていただくとして,ここでは金箱淳一さんが自身の博士論文でも触れているのと同様にレクチャーにて触れていた.
簡単にまとめると,触覚提示に関する感覚器官はいくつかの受容器から成り立っており,周波数によって閾値が異なったり組み合わせで判断したりとする.
といういくつかの背景を踏まえ,ではそもそも音楽は音を主軸とするのざるを得ないのかという疑問を持つようになり,最近では似たような問いかけを投げる文化活動もある.
じゃあ,視覚情報を主軸としたらどうなるのだろうかと思い浮かべた際,Visual Vernacular?と出てくる.
音楽というよりもパーフォマンス手法になってしまうのあるけれど,音楽を演奏するという意味ではまだ近いのかなって考えたりしていて.
コンピューターという計算機であれば,音を主軸とした音楽を演奏する楽器ではなく,何かを主軸とする音楽を演奏する楽器を制作するのを可能とするのではと問いかけを持っているんだけれど,制作しようと至らないままになってしまいがちになっているのをなんとかしたいと思ったときに今回のワークショップをきっかけでヒントを得られたらと思い至ったのが,参加した経緯.
という感じで,チームが固まりつつという時に,音を主軸とするのを一旦やめてみません?と私が言い出したきっかけで混沌を呼び出してしまい,中々まとまらない事態になったり,松村さんがアイメントに演奏させたいなぁとか思いがけないことを言い出したりして,これはなかなか音楽って音を主軸とするの難しいのかと気付いた時間帯でもあるわけで,非常に楽しめた.
あとは,小野さんがうまく映像と音をチューリングしてくれたり,前田さんが見た目を整えてくれたり,立花さんと松村さんが音と匂いをリンクさせるように選んでくれたりと.
そして,私の中でなんとなくまとまりつつあるのをあえて草案に混ぜるように(下記に引用)で書いてみて,その草案をチームメンバーに共有して,立花さんや前田さんにうまく書き直してくれたり.
最後の最後のところで一気に追い詰められるだけ追い詰められたのもチームメンバーに恵まれたからだと思う.
このまま,この作品をもう少しブラッシュアップしていきながらクオリティを上げていきたいなと思いつつも,また別のアイデアが思い浮かんだりしている間に関係者からもいくつか話しさせてもらったりと,収穫が沢山あったワークショップだった.
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