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「生と死は表裏一体ではなく、着眼点の異なる同一概念である」という事に気がつけば人生は壮大なギフトでしかなくなる。

あなたは「死」という言葉にどの様なイメージを持っていますか?
多くの人はネガティブなイメージだと思いますが、私はどちらでもありません。
というのも、生と死は常に共にあって、どちらにも光も闇も垣間見るからです。
というか、光と闇でさえも、すべての対は結局一つなので、その説明もちょっと変かぁ。

私は数年間、毎月5回前後飛行機で移動する生活を続けていたのですが、必ずと言ってもいいほど離陸の前は毎回自分の乗る飛行機が墜落する映像が脳裏に流れるのです。
その数分間は割と鮮明で、痛いだとか暑いだとか苦しいだとか、そういった身体の叫びが頭でこだまして、相当気味悪いです。とはいっても、今こうして言葉を紡いでいるのですから、それが現実になったことはないのですが。

でもそんな時、私の頭は何ども「気味悪い」と唱えながらも、心の奥底には死への好奇心が見え隠れしているのを必死に隠しています。
なぜ隠すのか、それは私にもよくわかりませんが、永遠の繁栄を目指す人間として、地球で生きる1つの種として、「死」に対して好奇心を抱いてはならぬ、と本能が制御しているのかも知れません。

『夜に駆ける』という最近ヒットした曲があります。『タナトスの誘惑』という小説を音にした作品だと言われていますが、この小説は、死に取り憑かれた少女と、その彼女の儚さに心を奪われた少年の話です。心理学者のフロイトが提唱した考え方に、「エロスとタナトス」というものがあります。どちらもギリシャ神話に登場する神の名前ですが、エロスとは生の欲動、タナトスは死の欲動を意味しており、多くはエロスに魅せられ生に執着しますが、タナトスに魅せられる者も一定数存在し、この世界の人間は必ずどちらかに所属するというものです。私が死に対する好奇心を持っているのも、私の中にタナトスに魅せられている側面があるからなのかもしれません。

"君"はタナトスに魅せられる人種であり、死に憧れ、執着しています。この小説の中で、タナトスに魅せられる人間は、自分の最も理想とする姿の死神を目にすることができるという設定があり、"僕"は自分には見えない何かに恋焦がれる"君"に嫉妬しています。"君"をこの世に留めようと尽力する"僕"ですが、どんな言葉もタナトスに魅せられる"君"には届かず、勢い余って"僕"の口から滑り落ちた「僕も死にたい」という言葉とともに、"僕"は自分こそがタナトスに魅せられる側の人間で、"君"が自分にとっての死神だったことを悟り、2人仲良くタナトスを追いかける、というオチなのですが、結局、"僕"と"君"にとっての死とは生に勝るものだったのです。

フロイトは、『エロスとタナトスは表裏一体である』と言っていますが、表裏一体という言葉には「表と裏が密接で1つのものであるかの様に切り離せないこと」とあります。
それは、フロイトが、タナトスに魅せられる人間=0に魅せられている、と解釈しているためです。0とは1になる前の土台であって、結局は1、すなわち生に魅せられていることと同義だ、という解釈です。
もっとわかりやすくいうと、エロス系は自然数の先を目指し続け(生きていることを大事にしている)、タナトス系は完璧な1の為のやり直しをし続ける(全部ゼロにして完璧に生きることを大事にしている)、ということです。どちらも1≦(生きること)を先に見ているのだから「同義だ」というのがフロイトの言い分です。また、「表裏一体」という言葉を用いていることから、フロイトは生を表、死を裏という風に捉えていることもわかります。

しかしながら、私は先の小説を読み、"君"の目指すものは1のやり直しなどではなく、死そのものの様に感じてなりませんでした。輪廻転生理論など関係なく、ただ単純に「想像すらできない”死”」という何かに強烈に惹かれていただけの様に思うのです。彼ら(少なくとも”君”)にとって「死」とは裏ではなく表だった様に。
いや、違う。”君”はエロスとタナトス即ち生と死を、この様に分けて考えず、もっと離れた場所からそれを見て、文字通りで同一概念であると認識していたのではないでしょうか。裏でも表でもなく、彼女にとって生きることと死ぬことは同義だった様に思えます。「生でも死でもない生と死の何か」のを把握したお上で、個人的な感性で自分は「死」を見よう、と選んだかの様に思えたのです。

私は、この世に存在する全ての対は同一概念であると強固に思っています。ついでに言うと、この世界に存在する全てのものが対となるとも思っています。

そもそも私たちが死ななければ「生きる」という言葉も「死ぬ」という概念も、誕生する必要がありません。光と闇、表と裏、前と後、白と黒、あるいはカラーとモノ。よく、双子として誕生した概念たちをフロイトの様に表裏一体という言葉で表しますが、私は疑問に思います。

裏と表という概念は元々存在せず、一つの概念の物体「何か」のどこから見るのか、という場合分けをするために”一応”作ったサブ概念のはずなのに、それらを「表裏」という言葉を使って同一視しようとするのには無理があります。(表と裏がないことを、表と裏という概念を使って説明するのは変!)

私たちは長らく、表裏という言葉に悩まされ惑わされてきました。プラスとマイナスにも、ポジティブとネガティブにも、正義と悪にも。
「そこにある物体X」に対する着眼点の違いでしかないのに。

ここらで、タイトルを回収しようと思います。

私たち人間はとっても小さな存在で、人生に訪れる全てのイベントに評価を下したがります。ラッキー、アンラッキー、甘い経験、苦い経験。どんな評価を下したとしても、「この世の全てが対になる」「生と死は着眼点の異なる同一概念である(この世の全てのものに別の着眼点が用意されている)」とさえ気がつけたら、全てのイベントはあなたにとってのギフトになり得るのです。そして、人生そのものが創造主(私は誰か知りませんが、神、海、地球、天体、銀河、それ以外かも)に与えられた壮大な贈り物だと思い込むこともできるのではないでしょうか。

「人生捨てたもんじゃないのかも」と思い直せるエロスの住人が増えることを願って。

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