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ウェブサイト

 二〇二四年に入れば、ウェブサイトを開設して二十年が経ったことになる。ずいぶん変わったように思う。ウェブサイトそのもののデザインは当初からほとんど変わっていない——ページやブログの入替ほどだ——が、僕は京都から、パリ、岡山、ローマ、そして東京へと移ったし、インターネットは開放的なワールドワイドウェブから閉鎖的なソーシャルネットワーキングサーヴィスに遷りつつある。オンラインで注意経済がいよいよ猛威を揮うなか、僕はコンピュータをしだいに使わなくなってきてもいる。
 ウェブサイトの題号を「The Passing」としたのは、二十歳の頃にビル・ヴィオラの同名のヴィデオアートに感銘を受けたからではあったが、いうなれば情報の海原を通過して生まれ変わっていく経験という含みをもたせたのだった。もちろんノートブックに日記を記すのでもよかったはずだ(実際にそうしてもいる)。それでもウェブサイトにしたのは、他人の眼に触れる緊張によって自分の思考を鍛錬し、他人の眼に触れた事実によって自分の文章を完結させることを考えたからだ。記録性に優れたフィルムに対して、ヴィデオは優れた即時性をもち、リアルタイムでありうることを強みとしていた。ノートブックとウェブサイトの差異にも、同様のことが言えるかもしれない。
 また二十年が経ったら、どうなっているだろう。もうインターネットすらないかもしれない。すでにヴィデオはほとんどなくなってしまった。ヴィデオアートの初期作品の保存修復は、美術館でいま大きな課題になっている。フィルムも同様の運命を辿りつつある。だがいずれにせよ、僕のすることはほとんど変わらないだろう——通過していく経験を書く。
 僕は理解するために書くのであって、理解されるためにではない。音楽を聴き、絵画を見て、舞台に接し、あるいは書物を読みながら、洞察が訪れたとして、でもそれがうまく言葉にならないことがある。そのときにこそ、言葉の飛躍の力に頼ることになる。言葉は脈絡なく並べてさえ、飛躍してでも連絡をつくりだす。その飛躍を、洞察の訪れを思い返すための手がかりにするのだ。だから、僕が書くことで望んでいるのは対象を理解することであって、自己を理解してもらうことではない。理解するための言葉は、挑みかかってきて、謎めいていて、考えさせる。言葉の飛躍が思考を駆動し、対象をもっとよく見るようにと強いる。理解されるための言葉にはそれがない。滑らかで、心地よく、眠気を誘う。ゆえに、そこにいかなる博識があろうと、また良識があろうと、「読みえない」文章がある。何も考えないのだ。
 書く理由にはもう一つある。ごく単純なことで、考えるのは喜びであり、書くのが幸福であるからだ。三木清も言うように、「幸福とは表現的なものである」。幸福は機嫌よく、丁寧で、親切で、寛大に、外へ外へと喜びを広げていく。「鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」。もし幸福を内に押し込めているなら、それはどこか不幸なことだろう。すでに厖大な言葉が世に溢れかえっているのに、なぜ書くのか——答えはここにある。
 ウィトゲンシュタインの言葉を、僕はついこの意味に読み換えてしまう。「他の人々が私の書物によって自分で考えずに済ませることを私は望まない。私が望むのは、それが可能だとして、人が自身で思考するよう私の書物が励ますことである」。書物の幸福は思考する喜びを外に押し広げていく。単純で当然のことではあれ、二十年のあいだには忘れ去ってしまう瞬間が一度ならずある。それを思い出すにも幾度となく書くほかない。

(2023.12.25-12.30)

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