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インディーズTシャツブームの勃興と終焉について(6)LESS北山友之

いきなりここに飛んだ方は(1)をどうぞ

ハドソンコラボでデザイナー参加してもらったハンバーグ009とさらに新作『ナッツ&ミルク』『ボンバーマン』を共作し、自信満々で僕の当時のブランドMARS16は渋谷のT-NOWに参加した。主催はハンバーグ009、共催は会場となったmiddle。middleはデザイナーでも知られる川田勝也氏(当時はランドマークというデザイン会社の取締役、現在S3 BRANDINGの代表)と、山下和也氏(当時は国会議員秘書、その後奈良県葛城市長、現在新時代クリエーション研究機構 代表取締役) で始められたもの。

「お世話になっている三茶のプリント工房、エビス工芸の海老沢さんから紹介いただき、middleの二人にお会いしました。その時のmiddleはアクセサリー雑貨と旅行代理店のパンフが置かれた2ブースのみの稼働。 お二人から出店のお誘いをいただき、最初は期間限定の単独出店でした。すぐに「継続で」との依頼をいただいたのですが、Tシャツを売ってるお店としての認知がほぼゼロだったので継続的に売れる香りが全くせず。なので定期的にイベントをやって店自体の認知上げましょうと。そこで生まれたのがTナウでした。」(元ハンバーグ009 モジャメガネ氏証言)

最初はレンタルスペースだったが、インディーズTシャツブランドブームに乗っかって、インディーズTシャツブランドのセレクトショップに発展した。そのきっかけはT-NOWというイベントがとてつもなく成功したからじゃないかなと僕は推測している。

T-NOWはTシャツラブサミットのさらに凝縮版だった。渋谷の中心で数日間開かれるインディーズTシャツの展覧会。TVに連日出てくるインディーズTシャツが実際見れるんだ!情報は瞬く間に多くの若者を中心に広がった。むろんというか、売れに売れ、僕は持ち込んだTシャツが苦労なくどんどん無くなっていくのが不思議なくらいだった。のちの店長となる佐々木さんはアパレルの出身でこのムーブメントを心から楽しんでいた。middleが店舗としてレギュラー化されたのはこの佐々木さんの功績が大きい。

ここでmiddle四天王と呼ばれる「レッドバズーカ」「ハンバーグ009」「ちくわぶ」「MARS16」の図式が生まれる。「レッドバズーカ」の威厳半減T、「悪意1000%」の豆腐わしづかみT、「ドロップキック」の間取りT、「middle」のサッカーT、「Ningendo本舗」のうさぎTシリーズ、「ちくわぶ」の点字ブロックT、「昭和元禄」(現在はSAKAKIという名で日本を題材にしたファッションを展開中)の亭主関白T、等々ショップとなって7年の間に数多くのヒット作が生まれた。この店の果たした役割は渋谷という土地を含めてとても大きく、2011年2月の閉店には多くのファンが訪れた(閉店理由は上記記事にて)。余談だがのちに知り合うMCのいぶし銀次氏はこの店のファンだったそうでT-NOWにも足を運んでいたらしい、そういうことからもシーンの広さを知れる。さらに一時は「雪崩式」(オモロ系プロレスブランド)のコマ氏がアメリカ村BIG STEPのmiddle大阪店の店長となり、東西インディーズブランドの発信基地となっていたり(残念ながら数年で閉店)。全国的にもmiddleの名を知る人は今も多いはずだ。

2004年はそんなmiddleの華々しいキャリアスタートの年だったのでないだろうか?当時はオモロ系インディーズTシャツの全盛期ではあったが、middleではグラフィックTも関係なく売れた。僕はすでにアニメとのコラボTもスタートし、デザインの量は前年に比べ倍に膨れ上がっていた。が、このセレクトショップがなければそんな冒険はできなかったと思う。そしてここで出会った「TAR-GET」(グラフィックTシャツブランド、GET-ONなど雑誌への露出も多かった)というブランドのデザインに心底驚いた僕は、SYURIKENとブランド名を変えたデザイナー綾氏と大阪のmiddleで顔合わせをし、その後数々のデザイン参加をお願いすることとなる。Tシャツラブサミットもどんどん注目度&集客が増した中、僕はトークイベントTシャツマニアクスの2回目を開催。東京Tシャツ部クラゲ氏を共同MCとし、「コアチョコ」、「ハンバーグ009」、「マニックデプレション」(デザイナーコンドウ氏の率いるブランド。のちにリバーサルのデザインに参加)等々実にたくさんのブランドに登壇してもらった。さらに7月には東京Tシャツ部監修「インディーズTシャツガイド」ムックが刊行された。

この本の中で僕のデザインした映画「ウェルカムドールハウス」のコラボTシャツをますだおかだの岡田氏が着こなしてくれたのは当時のお笑いブームが如何に密接にTシャツと絡み合っていたのかを証明している。middleの登場はまさにそんなブームの真っただ中の象徴的存在だった。中心にいた僕はあまりそんな意識もなく、ただただデザインを生み出し、目の前のお客さんと向き合っていた。が、2004年はさらに大きな動きがどんどん続くことになる (7)へ続く


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