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インディーズTシャツブームの勃興と終焉について(5)LESS北山友之

いきなりここに飛んだ方は(1)をどうぞ

僕がかつてやっていたMARS16というブランドは僕にとってレコードレーベルと同様のものだった。出すTシャツはすべて「~thシングル」と別名が入り、プロデューサー・デザイナーのクレジットはどんなものにも必ず入れた。北山が携わるものもあればないのもある。でも全体では間違いなく僕らの作品、そういう意識下のもと、製品を量産をしようと考えていた。これらは間違いなく音楽から影響を受けてはじめたことで、ほかのブランドは少なくとも2000年代の初頭にこんなことはやっていなかった(グラニフが同様の感じに表記しだしたのは2005年頃)。後述するが、結局のところ僕はこのやり方や特定の人間との関係に辟易していき、最終的には自分で作ったブランドなのに抜けることになる。

今のOctober Beastは自分のデザインをどこまで極めれるかをコンセプトにしているので考え方は真逆だ。むしろ当時のインディーズTシャツブランドたちにマインドは近いかもしれない。でも2021年年末、そんな僕が信頼できるディレクターから呼ばれ完全にデザイナーに徹したアメリカ発のブランドに堂々参加することになるとは。まあ、この話はまたいずれしよう。

ともかく2003年の第2回Tシャツラブサミット参加でインディーズTシャツに興味を持つ人がめちゃくちゃ沢山多くいることをその目で見た僕は、いつの間にかシーンが出来上がっていることに驚いた。奔走しなんとか開拓してきた流通販路とは違う、ある意味目の前お客さんとの純粋なガチンコ勝負。自分の力次第でイベントというのは売れ行きが大きく変わる。もともと営業をやっていた僕にとってこれはとてもいい場所だった。また会場奥ではお笑いのステージがあり、そこにはこれから表舞台に出てやる!と鎬を削るお笑い芸人が上がっていた。タイミングを同じくしてM-1やエンタの神様のブームも訪れ、ここから本当に有名になった芸人は山のようになっていく。そしてその方たちがTシャツラブサミットで買ったTシャツを着てTVや雑誌に出ていくものだからインディーズTシャツブランドのTシャツが連日登場。あっという間にメディアのファッションはインディーズTシャツにジャックされていった。

もはや世間的に知られるインディーズTシャツ。そこに僕が中目黒ばんで知り合ったハンバーグ009にハドソンコラボのデザインを依頼したのは全くもって自然な流れだった。僕のレーベルからデザイナーとして登場してもらう、90年代後半から活躍している同年代(ウエスギ氏に至っては全くの同い年)の彼らにデザインをしてもらう、まだほかのブランドはこんなことをやっていなかったので余計僕はこの企画に乗り気だった。このコラボ情報はどうやってか拡散されていき(SNSの時代ではなかったがそれだけにホームページの影響力は大きかったのかもしれない)、次第にWEBにはどんどん注文が入るようになった。流通に頼らず、WEBで商売が成り立つ。ハンバーグ009のブランド力ってヤバくないか?ゲームコラボだけではここまでにはならないのでは、と。ちなみに当時ハンバーグ009の熱心なファンにはaikoや宮藤官九郎、アンガールズなどがいた。僕は自分の商品がいろんなところで出てくるのが嬉しかったが、どこか悔しくもあった。

そんな中ハンバーグ009から「渋谷のmiddleというセレクトショップでイベントをやるので参加してくださいよ」とお願いが入った。2004年のことである。(6)に続く

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