大衆アンチ拗らせ発狂

前回の記事では大衆アンチ拗らせな私が面食いという超しょうもない動機で超大衆向けコンテンツであるキラキラアイドルにハマってしまった話をした。

面食いと言っても、私はちょっと影のあるような、笑顔の裏に不安が隠しきれないような、どこか退廃的な、そういうヤツが好きだ。

理由は勿論、私の世界に属してほしいからである。カビ臭いラブホテル、隣には今にも死にそうな顔した色悪。きっとこの部屋からまともな精神を保ったまま出られるのは一人だけで、それが私なのか、相手なのか、もしくは二人とも狂ってしまうのか。

精神的に余裕が無いあまり、愛を騙って他人を傷付ける奴は哀しい存在だが、その哀しさや弱さが愛おしい。

だからこそ、矢張りキラキラアイドルにハマっている自分が赦せない。不祥事を出せ。毎晩違う女と週刊誌に撮られろ。ふとした所で自傷癖を暴露しろ。弱くあれと願えば願うほどに彼らはプロであり、強かで、私とは違うという現実に打ちのめされる。

なんなら、彼らが苦しみ弱る様を一瞬でも望んだ自分すら呪う。(そもそも彼らはたぶんそんなに暇ではない)

それでも矢張りどれだけ忙しくても、仕事と仕事ではない私達には決して見せない二面性が存在する限り、私はその断片を逃さまいと彼らから目を離すことができないのであった。そして彼らは器用に、アイドルとして成り立つレベルの憂鬱を私に魅せ、悩ませるのであった。畜生。

ところで、私の部屋はアウトプットに必要な機材を抜いてはかなりシンプルなつくりとなっている。置かれている書物、雑貨に至るまでが私の作り上げたい世界観に属している。

例えばそれは、ジョルジュ・バタイユ全集であり、ニーチェ全集であり、春陽堂の江戸川乱歩文庫シリーズであり、山本タカトの画集であった。

そこに最近キラキラアイドルの原色めいたジャケットが、雑誌が、侵食してきた。私の部屋にあった退廃的でさかしまな世界観は崩壊した。

破壊の次は構築と相場が決まっている。私はキラキラアイドル込みの私の世界観を再構築する為に、かつて素通りした危険な音楽に手を出した。

大衆アンチ拗らせは狂わないと大衆コンテンツを摂取することすらできない。部屋から出る際まともな精神を失ったのは私の方だった。フェーーーーーー。

そして私は心置きなくキラキラアイドルを狂気と共に推し始めた。TVは真夜中に、電気のついていない中、一人で見るものである。

かつてサティやらドビュッシーやらが流れていたスピーカーからは世界観をぶち壊すからと、あれほど憎んでいた猥雑なバラエティが流れ、私はストロングゼロを片手にさっきまで食べていたカップ麺の容器を灰皿に部屋を煙で満たしている。いや、バラエティを除けばそういう生活は以前からしていた。

泣きそうだった。自分の不器用さに。
許せなかった。バラエティを見て笑っている自分が。

そんな、私は正気を忘れ、供給されるコンテンツをただただ慾るだけの廃人になった。

ちゃんちゃん。(つづく)


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