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2018年に響くアシッドの音ーアシッド田宮三四郎に関する2、3の話(20180929)

ハードフロアのAcperienceを初めて聴いた時は「ようわからんけどなんかすごい」と思った。DJがかけるレコードでですら、TB-303の音はグルーヴ感があって有無を言わせない威力があった。90年代のクラブに通っていた30代後半から40代ならTB-303とハードフロアは切り離すことができない音だと思う。彼らのようなテクノアーティストが音とともに日本に伝えた90年代のDTM文化は、楽譜が読めなくても音楽をつくることができると教えてくれた。プログラミングによって旋律が生まれ、ビートが刻まれる。スタジオが必要ない、寝室でもつくれてしまうという意味での「ベッドルーム・テクノ」という言葉まで生まれたほどだ。
ただ、テクノはレコード収録が前提だったこともあり、そうした作り方をするアーティストのライブはパフォーマンスが地味で退屈だと揶揄されることも増えた。ギターやベースを鳴らすバンドではないのに、当時のファンはロック同様の華やかさを求めたのだ。

そんな時代から紆余曲折を経て十数年。過去のテクノやハウスの名曲を生バンドやオーケストラで演奏する流れがある一方で、打ち込みの曲をリアルタイムで演奏するマシンライブの流れが注目されている。人がテクノの各パートを担当し、マシンを操って手動で重ねる。前述の時代からあった手法だが、すべてがPCで制御できる現代では「アナログマシン」や「手動」がもはや意味を持つ。ビジュアルやパフォーマンスの個性としても還元されるようになった。そう考えると、この表現形態を今見られるのがどれだけ面白いことか。
そうしたことを身近に体感させてくれるユニットが、都内を中心に活動するテクノユニット・アシッド田宮三四郎だ。2013年にDie(TB-303×2/TT-303/SH-101)とJaermulk Manhattan(TR-909/TR-707/TR-606)の2人でスタートし、2014年にはサポートとしてミキサー的存在の邂逅の日(RMX-500/MIXER/SH-101)が、2017年後半にはボイス&ボーカルのモクタール(RMX-500/MIC/VOCAL)が参加し、現在の4人編成となった。ライブは不定期だが楽曲の緻密さやグルーヴ感、ライブパフォーマンスの面白さ(あと機材の見た目)のクオリティの高さは、他のテクノ系ユニットの追随を許さない。

マシンライブで人数が増えるということは、タイミングを合わせる機会が増えることでもある。単純にライブは大変になる。マシンを使ってはいるがスタートボタンを押すのは人であり、そのタイミングを合わせるのは人だからだ。練習だって絶対に必要だ。でも、それだけのことをやっても人の動きによる微妙なズレは逃れられないから、レコーディングやライブ、そのリハーサルから本番まで一度として同じものになることがない。こんなに大変なことをわざわざやっているライブが面白くないなんてことがあるだろうか。TB-303(とクローン物)やTR-909、TR-707、TR-606、その他いろいろの機材をこれでもかと並べて操るアシッド田宮三四郎は、インプロヴィゼーション系のジャズバンドや、ライブごとにアレンジが変わるロックのライブバンドとも何ら代わりはないのだ。

彼らの直近のアルバムは、5月に発売した「ACID ACID」。2013年の活動開始から数えて10枚目という記念すべき一枚だ。M3を基準にしているから、アルバム発売は半年に一度。でもこの5年で確実に進化している。彼らの軸となる機材やスタンスは恐らくそのままだが、メンバーが増えたことによる物理的な要素の広がりはもちろん、一曲ずつの強度が明らかに違っている。クラブトラックでよく言われる、黒っぽいリズム感や色あいも増している。
例えば、1曲目の「I need DOPE I need HOPE」。テクノの常識で言えばサンプリングになるであろう冒頭のボイスは、人が繰り返す、人の言葉として放たれる。モクタールのボイスは低く強く響き、言葉は少しずつゲシュタルト崩壊し、呪術的な要素さえ感じられるかのようだ。まさに、本当の意味での「ドープ」なトラック。だが中盤になるとアッパーさが増し、ボイスはラップに変わって少しのポップさが含まれたトラックへと変化する。とはいえうねりながら描かれる旋律と強いキックは緩むことなく、高揚感をまき散らしながら曲のラストまで駆け抜ける。
そして2曲目の「Yo Yo Get PUMP IT」へ。一曲ずつ解説するのはなんとなく無粋な気もするが、2018年のアシッド田宮三四郎だからこそできる曲が「Yo Yo Get PUMP IT」のような気もするから説明しておこうと思う。タイトルでわかる人はわかるように、端的に言えば超有名なヒップハウスFAST EDDIE/Yo Yo Get FunkyとシカゴハウスDJ FUNK/Pump itのマッシュアップ物だ。一介のマッシュアップと違うのは、各曲のサンプリングによる縦糸にモクタールのネイティブな英語によるボイスが折り込まれ、シカゴハウスとヒップハウスとアシッドテクノが複雑ならせんを描く部分にある。情報量の多さたるや! しかもCDは録音だからその形で収まっているが、ライブでこの状態が保たれるわけがない。実際にライブを見ても、他の曲かと見紛うレベルでアレンジされていることが多く、モクタールのボイスやサンプリングが出てきてようやく気づくことも多い。

MCがほとんどないテクノユニットのライブでは、どこから次の曲になったのかがわからないことはよくある。その傾向はアシッド田宮三四郎にもかなり強いが、これはDieや邂逅の日を始めとするメンバーがDJの素養を持っていることが大きい。会場やイベントに合わせて曲を選び、何らかの構成を考えながら流れをつくる作業はテクノに限らずどんな出演者でもする。でも彼らのように「踊っていたらライブがいつの間にか終わっていた」と感じられるスタイルに仕上げるのは難しいことだ。これは「ライブ全体が一曲に感じられる」ことともほぼ同義であり、かつてフランスのDJロラン・ガルニエが初来日した際、その流麗なプレイに衝撃を受けた人々が彼を評して言った「一晩のプレイが一曲のようだった」という賞賛にも似ている。
こうした話をすると、そのライブが比較的地味で、音を聴いてひたすら踊るスタイルかと思う人もいるだろう。でも、それだけではないからすごいのだ。全体では一曲のような流れをつくりながらも、途中に引っかかりを残すコールアンドレスポンスの時間が必ずある。例えば80年代のドリフネタとOiパンクのダブルミーニングが見て取れる「Oi TAMIYA」では「Oi」のコールアンドレスポンスがある。メンバーがこれでもかと煽ってくるが、この時も含め邂逅の日のマイクパフォーマンスは個性的で面白い。ミキシング中のダイナミックさをそのまま言葉にしたような勢いがある。
また2枚目の「The Stoic Albums -Techno Acid Beat-」でfeat. Omodaka名義で発表されたアシッドmeets民謡「Chankacid」もそうだ。10枚目で 「CHANKACID NEO」として進化し、ライブでは文字通り「踊らにゃ損」なトラックとしてフロアを狂乱の渦に陥れる。渋さ知らズやニューエストモデルの系譜にある、電子音には一見違和感がありそうな土着的でプリミティブな要素までも織り交ぜ、誰もが「アリ」だと思えるレベルにまで昇華させて爆発させている。こうしたハレとケの表裏一体感には、Jaermulk Manhattanのセンスを思う。楽しさの中に感じられる哀愁とのバランス感は、ソロでは三拍子でテクノをつくるような独特のセンスがあるからこそできることなのではないか。元々、異質な要素を組み合わせることに長けているのだから。

一回逃すとその時のライブはもう聴けない(録音でもされていない限り)。だから私はアシッド田宮三四郎のライブがある時はできるだけ行くし、逃したくないと思っている。その面白さを皆にも知ってもらいたいと、2015年には自分のイベント「WHITEROOM」に出演してもらった。その様子は5枚目のCD「Session In The Whiteroom」に納められているが、今は面影すらない。まだまだのどかなものだったのだ。
そんな風にして、アシッド田宮三四郎は軽やかに変化していく。2018年後半は、どうやらいろいろなイベントでライブをやっているらしいから、その様子を一度確認してみてほしい。打ちのめされるような迫力と高揚感のあるアシッドを浴びる。それはきっと楽しいことのはずだから。



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