見出し画像

Feeling Sense, NOT Making Sense(理にかなう)舞踏家 Akram Khan

朝食や、料理をしているときに、国営放送のBBC Radio 4をかけっぱなしにしていることが多いのですが、しばしば、意外な話題に出会います。インターネット上で新聞や記事を読んでいると、限られた範囲のものを読んでいることが多いですが、ラジオというのは、ランダムで自分の知らなかった世界を経験する機会をくれます。
今回は、世界的に知られている舞踊家でロンドン出身のAkram Khan(アクラム・カーン)さん。

アクラムさんは、バングラデシュ出身の両親のもとにロンドンで生まれ、お母さんの勧めもあって、バングラデシュの伝統的な踊りを子供のときから習います。

イギリスには、インド・バングラデシュ・パキスタンからの移民は多いのですが、少しだけバックグラウンドを。
イギリスはインド(現在のインド・パキスタン・バングラデシュを含む広大な領域)を約200年間植民地として支配してきましたが、独立運動等、さまざまな政治的な問題にも悩まされ、1947年にインドを分割して、植民地支配から手を引くことになりました。ガンジーは宗教を元に国境を分割しないよう主張し続けていたし、すでに宗教間でのテンションも非常に高まっていたにも関わらず、イギリスは宗教の分布を元に、ヒンズー教インドとイスラム教パキスタンに分けました。この情報は前もって広報されず、実行に移した2日後に広報され、多くの人々は自分がどちらの国に住んでいるか分からず混乱が起こり、約100万人の人々が殺され、1500万人が住む場所を失ったとされています。
BBCの簡単な記事はここから。
その後も、カシミール地方をめぐって、インドとパキスタンの間での戦争も経験し、パキスタンの中でも分裂があり、最終的に1971年にパキスタン東部がバングラデシュとして独立国となります。
これらの紛争が続く中で、多くの人々が、Motherland(母の国)と押し付けられてきた国イギリスへと移民してきました。イギリスも戦後の経済復興のために、多くの移民を歓迎しました。
ちなみに、イギリスの植民地時代には、インドでは広域な飢饉が何度も起こり多くの人々が命を落としましたが、植民地でない期間(イギリスに植民地化される前と後)には、飢饉はなかったそうです。植民地支配を行ったイギリスは、自分たちの国(イギリス)が豊かになることだけを考えて、植民地の作物のバラエティーや人々の生活・健康・権利を全く度外視していたから飢饉が何度も起きたとする見方もあります。

アクラムさんに戻ると、10歳のときに、イギリスの著名な劇団演出家Peter Brooke(ピーター・ブルーク)が「マハーバラタ」というインドの物語の演目のために、オーディションを行いました。そこでアクラムさんは選ばれ、子供でしたが、劇団についてまわり、世界中で踊ることとなります。このオーディションも、アクラムさんのお母さんの勧めだったそうです。

アクラムさんが、そこで学んだのは、「アーティストがどう動き、考え、生活しているか」だったそうです。ロンドンに帰ってきたものの、机に座って先生の言うことをじっと聞くだけの日々に我慢できず、両親には内緒で、家の車庫にテレビを持ち込み、大きな鏡も用意して、自分の踊るスペースをセットアップしたそうです。両親はレストランを経営していて忙しかったので、朝は学校へ行くふりをして、両親が家を出てから車庫に戻り、一日中、さまざまな人の踊りを研究し真似して踊り、鏡の前で修正して自分なりに変化を加えたりしながら、学校から帰る時間になると学校から帰ってきたふりをしていたそうです。

なんと、それは1年続いたそうです。

学校から出欠について手紙がきていたものの、両親が見る前に破り捨てていたそうです。ところがある日、母親が授業参観の手紙を見てしまい、学校に行くことになるのですが、そこで、息子の名前がよばれなかったことに疑問をもった母が先生に聞くと「アクラムに今日はじめて会えてとてもうれしいわ。(だからアクラムの役はついていなかった)」と言われ、1年学校に行っていなかったことが母に知られます。母は怒らず、その間何をしていたのかを深く興味を持ち、質問します。アクラムは両親を車庫に招き、何をしていたか説明します。2人はとても驚きますが、とりあえず学校には通うことを約束としたそうです。

彼が言うには、彼にとって踊ることは息をするのと同じことで、踊ることは生きることで、プロフェッショナルになるなら、そのぐらいのObsession(オブセッション/執着心)がなければ無理だ、と言っていました。

アクラムさんは大学の現代ダンス学部に進学したのち、さまざまな国で踊り、自分のダンスカンパニーも設立して、他の分野の音楽やバレエのプロフェッショナルとのコラボレーションも続け、どんどん世界を広げていきました。

ある日、オーストラリアでのその日の公演を終え、タクシーに乗ろうと思ってドアを開くと、タクシーの列に並んでいた人々がアクラムのことをホテルのベルボーイだと勘違いして(アクラムさんはバングラデシュの両親から生まれているので見かけがアジア人で、白人社会ではウェイターや配達員、ベルボーイに間違われるのはよくあること)、そのタクシーに乗り込みました。仕方ないな、と思って次のタクシーに乗り、なぜか普段は心理的な距離が遠く電話なんてしない父親に電話をかけます。時差のことはあまり考えてなくて、その時間は恐らく深夜か早朝で、お父さんは「お金に困っているのか、犯罪に巻き込まれたのか?何か助けが必要なのか?」と聞くだけで、普通に今日のダンス公演がどうだったとかいう話にはなりません。それで、諦めて電話を切ると、運転手さんがベンガル語で、「きみのお父さんは○○(お父さんの実名)で、△△(お父さんの出身の村)出身ではないか?答えてくれ」と頼まれます。お父さんの出身の村はとても田舎で小さく、その村を知っている人は限られていて、アクラムさんは怖くなり、いったんタクシーを止めてもらって外に出ますが、運転手さんは、窓を開けてどうしても教えてほしいと真剣に頼みます。そこで、アクラムさんはタクシーに戻り、この運転手さんが、アクラムさんの両親出身の村出身で両親の子供の頃の親友だったと知ります。そこで、アクラムさんがお父さんに電話をかけ、この運転手さん名前を言うと、普段は感情を見せないお父さんがアクラムさんの前で初めて泣いたそうです。
この3人が故郷を離れて外国に行かざるをえなかったのも、イギリスのインド分割による際の残酷な場面を経験したことと、国が貧しく良い未来が描けなかったせいもあるそうです。
アクラムさんが子供のころ(70年後半~80年代)は、ロンドンにも現在は禁止されている白人優位主義グループが町を徘徊していて、アクラムさんのお父さんのレストランの建物の一部を壊したり、あからさまな嫌がらせや脅しを日常的に受けていたそうです。有色人種に対する差別は当たり前で、犯罪を報告しても警察はほぼ相手にしてくれない環境だったそうですが、アクラムさんのお父さんは、どんな暴力や嫌がらせを受けようと、不満ひとつ言わずに、毎日レストランをオープンし続けたそうです。

半年後くらいの公演に両親とその運転手さんを招き、公演の合間に、両親と親友の再会についてと、この3人を観客に紹介したそうです。

アクラムさんにとっては、そのタクシーには乗るはずじゃなかったし、普段だったらお父さんに電話しないのに電話したのもなぜかは全く分からないし、全く理論的ではないけれど、無意識の中でのつがなりがあったのではないか、と信じていると言ってました。

これは「Feeling Sense(アクラムさんの個人的な造語で、「理にかなう」の反対で、感覚的・無意識化のつながり), Making Sense(理にかなう)ではなく」といっていて、すごくしっくりときました。

芸術家は、銃をもって闘うわけでもスパイ戦術を持っているわでもないのに、多くの残忍な独裁者が最も恐れ黙らせようとするグループの人々です。
それは、芸術家の無意識な部分をつなぐ、明らかにする、人間を人間たらしめている能力にもよるのではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?