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逆さの木と2つの道

20年以上前に、ロンドンにスーツケース1つで、1人で、2か月の語学学校滞在予定でやってきました。日本では、ITエンジニアとして1か月100時間近い残業も普通で、疲れ果てていたこともあり、ロンドンでの生活が気に入り、格安の語学学校を契約し学生ビザにきりかえ、インターンシップやアルバイト等もしながら仕事を探し、労働許可をとってロンドンで働き始めました。

こう書くと、比較的恵まれたバックグラウンドだと思うかもしれませんが、子供の頃からの家庭内暴力と虐待と貧困のバックグラウンドで、いつもクラスで二番目に貧しい子供(一番貧しい子は、両親が蒸発してご飯も食べられない)でした。ただ、勉強はできたことと、運よく、優しい同級生や近所のひともいたので、外の世界に救われました。高校や大学も「女子教育」に反対だった親から妨害を受けたものの、ここも運よく、当時の担任の先生から親への説得があり、選択肢はほぼ無かったものの、家から通える範囲にあった国立大学にも行くことができました。
たまたま家庭以外の場所やタイミングで運がよかっただけで、虐待にあったひとが長期間の病気におちいったり、虐待環境から動けなくなるのは、彼ら・彼女らが通過・経験せざるをえなかったことを考えれば当然の結果です。
これは本来、社会全体でサポートしなければいけないことです。

アメリカでは、「Emancipation of minors(解放)」という法律的な仕組みがあり、未成年でも、問題のある保護者のコントロール下から離れることができるものですが、これも子供の基本的人権を認めているからこそ存在する仕組でしょう。
イギリスの場合も、子供と親を引き離すのが早すぎるという批判もあるものの、「子供の安全と健康・基本的人権」を一番に考え、子供の安全に疑問があると判断されると、子供たちはすぐに行政に保護されます。
子供を軽くでもたたくのは違法だし、そんなことをしていたら、周りのひとがすぐ警察に通報します。日本では、この「基本的人権」に対するひとびとの意識が低く、それは法律にも反映されているように感じます。

数年前、ケニヤ出身でロンドンで活躍するスタンダップコメディアンが出演したラジオ番組をたまたま耳にしました。
父からの虐待と家庭内暴力がひどく、母は殺されかけて逃げ、その数年後、彼女も10代前半でひどい暴力を受け、命からがら、先に逃げていた母親のところへ行こうと、ケニアの深夜の森をぬけ長い距離を歩き続けたそうです。たまたま運よく、通りかかった人々が車に乗せてくれ、彼女は母の働いていた病院へとたどり着きました。
いつか、この暴力の理由を知りたいと思っていて、弟たちのうちの一人の結婚式に招待されたときに、家を逃げて以来会っていなかった父に対決することを決意しますが、その前日に父は死んでしまいます。
あまりの怒りで爆発しそうになっていたら、ロンドンの友人たちが、それをコメディー小説にしたら、という不思議な提案をします。誰かを勇気づけることになるのなら、とふと思い、彼女は小説を書きました。
その小説に出てくる父親からの虐待は、私が受けた虐待とほぼ同じで、虐待を行う人々の残虐さと想像力のなさへの皮肉な思いとともに、こんな遠くの国でも、虐待するような卑怯でちっぽけなひとがやることは同じなんだな、と思わず笑ってしまいました。
私自身、「Humour」にはすごく救われていて、こういった残虐なことをする人々の真の姿(=弱さ)を暴露するのは、こういった「Humour」かなと思います。
日本で「Humour」は笑いやユーモアと訳さざるを得ないのでしょうが、実際は日本にはない概念だと思います。
Humourは、力関係の圧倒的に弱い側からの、権力者に対する唯一の抵抗手段です。
力関係の強い側から弱い側につかうのは、Humourでは全くなく、いじめです。

小さいうちから虐待を受けると、家の土台がぼろぼろの状態で、その上に何をどう建てようと、不安定なものです。
親が子供の気持ちを受け止めることができず、反対に自分たちの不安や不満を子供たちにプロジェクトすると、子供たちは感情の抑制を訓練する場がなく常に強い不安状態になり、苦しむことになります。
また、「ひと」への健全な信頼感は育つことができず、極端に誰でも信用したり、全く信用できなかったりと、自分のバウンダリーもうまく引けず、自身を安全に保つことがとても難しくなります。
虐待の被害者が、成長してからもほかの人々からの搾取にあいやすいことにもつながることは、よく知られています。

ロンドンでは、本当に地球上のさまざまな場所で育った友人や知人もでき、私生活は楽しんでいたものの、仕事での人間関係には疲れることもありました。
ある日、日本に仕事もかねて帰国した際に、たまたま生まれおちた家族のメンバーの1人に、だまし討ちの状態で引き合わされ、無神経なことばを投げかけられたことで、心の奥底に閉まっていたつらい経験や怒りが突然ひきだされ、ひどく落ち込みました。
ロンドンに帰ってきてからも、とにかくしんどくて、仕事をしていない間は横にならないと身体がもたない、ご飯もうまく食べられず体重も大きく落ちて、眠れないという日々が続きました。
パートナー(現夫)からも強く言われてなんとか、GP(かかりつけ医)に予約をとり話をすると、「マイルドなデプレッションかもしれない」ということで、心理療法にリファーラルされました。
電話でのアセスメントで、「待ち時間は数か月になる可能性があるけど、カウンセリングを受ける必要がある」ということで、CBT(Congnitive Behavioral Therapy)に紹介となり、運よく1か月半程度の待ち時間で、心理療法が始まりました。

最初のアセスメントの日に、イギリス人心理療法士が逆さの木を書きました。
10年以上たってもなぜか鮮明に覚えているのですが、彼が説明したのは、「虐待等で育ったひとのCore Belief(コア・ビリーフ/核となる信条=しばしば、「自分は恥だ」「自分は存在する価値がない」等の間違った考え)は、この木の根っこと幹のようなもの。CBTで扱えるのは、この枝葉の部分で、根本の部分にはアプローチできない。ただ、生活していくのが少し楽になるはず。」ということでした。Expectation(期待値)を明らかにしておくのは大切で、実際、このCBTのおかげで、自分の認知やレスポンスが、子供の頃の危険な状態からうまくアップデートされておらず、危険な状態で生き延びるためには必須だった認知やレスポンスが、いかに現在の比較的安全な状況に対して不適合で、自分にとってもネガティヴな影響を及ぼしているかを学びました。
また、話しているときに、私の子供の頃の日常のことで、「それは脅しだよ」「それは違法だよ」といったことを一つ一つ指摘してくれて、「私がおかしいわけじゃなかった」ということを確認し、とてもほっとしました。
異常な環境下では、異常を見抜く子供は、「きちがい、おかしい」ということで責められます。私が子供だったときに、「親はいつも正しい。親の言うことには100パーセント従いなさい」という代わりに、「あなたの親がおかしい。あなたが感じることは正しい/適切」と言ってくれる人がいれば、どんなに気持ちがらくになっただろう、と思いました。
「あんな親をもつなんて、前世であなたは何かとても悪いことをしたに違いない」と言われたこともありますが、これは、科学的な根拠もないし、何の役にも立ちません。

イギリスも子供の保護に関しては40年近く前は遅れていそうそうですが、それでも私のようなケースだったら、間違いなくこどもたちは行政に保護されていたし、加害者も牢獄行きだろうと心理療法士に言われました。実際、30年以上前のイギリスのケースでも、私が受けた被害の半分くらいのことで、子供への虐待ということで、親が数年牢獄へ送られたケースもありました。
イギリスなので、とてもカジュアルなやりとりで上下関係がなく、私がどうしたいか、ということを軸に、お互いが合意する形ですすめていくのも、いい経験でした。
最後のセッションでは「(盤上ゲームの)少し後ろに戻ることはあっても、きみならゼロに戻ることはないよ」と言われて、終わりました。
この後には、Assertiveness course(アサーティヴネス・コース)も国のNHS機関で受けました。
CBTも先述したAssertiveness courseも、国のNHS(National Health Service)を通して、すべて無料でした。

この後は、デプレッションの再発はないのですが、家族の生死に関る手術が発生したときに、不安感が強まる可能性があったので、Art Therapy(アート・セラピー)にも、週一回ずつ半年通いました。歩いていける距離でチャリティー団体がやっていて、もちろん心理療法士はみんなきちんと資格のある人々ですが、収入に応じて治療費が定められていて、収入が無くても、低くても通える仕組みになっていました。
アセスメントのときに「CBTもいいけど、問題は、傷口を開いてそれをきちんと閉じられない場合もあることよね」と言われ、そういう考え方もあるんだな、とは思いました。
CBTの際には、とても辛すぎる経験で、当時は言えなかったこともあるのですが、Art Therapyは木の幹と根っこを扱うものなので、その経験と感情についても扱うことができ、かなり整理ができ、突然の記憶のよみがえりも怖くなくなりました。

セラピーは自分を見つめなおし、助けてくれるものでしたが、こどものころに植え付けられた間違ったCore Belief(「自分は悪い人間だ」「自分は恥だ」「自分には何の価値もない」)がなくなったわけではありません。10年以上たっても、「あ、またあのCore Beliefに戻ってる」と気づいて、自分の中で、あのCore Beliefは親から押し付けられた間違ったもので、私は、たとえ何をしようともしなくとも、この世界に堂々とスペースをとって存在する価値があるし、良い人間であろうと努力していて十分だと、自分の中で確認します。
夫が挙げてくれた私のいいところも、リストにしていつでも見られるようにしています。
少し考えや行動がネガティヴになったと気づいたら、CBTでやっていたエクササイズを数日やってみることもあります。対策をいくつかもっているのは、大事だなと思います。

長い間、どうして被害者で罪のない私が、加害者が行った結果を生きなければならないのか、いつまで続くのか、という怒りもあったのですが、これは、ふと出会った本で、この疑問が解けたように感じました。

「What happened to you?」は、アメリカ人精神科医のBruce Perry(ブルース・ペリー)さんと、アメリカ芸能界で活躍するOprah Winfrey(オプラ・ウィンフリー)さんの共著です。読む前は、オプラさんか、、と疑いの気持ちもあったのですが、トラウマ・インフォームド・アプローチということでブルースさんが、脳の仕組を科学的に説明しています。
私がこの本から学んだのは、子供のころに植え付けられたCore Beliefは消すことはできないけれど、新しい道をつくり、新しい道を意識して何度も通ることで、前者の道は古い道となり、通らなくなる道とすることができる、です。
私にとっての新しい道は、「何をしてもしなくても、自分にはこの世界にスペースを堂々と占めることができる権利や価値がある」等の健康で適切な考え方です。脳の働きとして、子供の頃にできた古い道は、どんなにつらくネガティヴなものであっても、古い脳の働きとして、そこに戻ってしまう強い傾向があるそうですが、脳の比較的新しい部分はどんなに年をとっても変わることができるので、意識して、新しい自分の選んだ道を何度も何度も通っているうちに、それが習慣となり、古い道に戻りそうになることは減っていくそうです。
私自身は、この古い道は見えるけれど、長い間通らないので、だんだんと雑草が生えてきて、新しい道を意識して通りながら、ときどきこの古い道が存在することも横目で見るような感覚です。

これは、きっと生涯続くことになるとは思いますが、この深い痛みをかかえながらでも、良い人生を生きることはできると信じられるようになりました。
虐待には、なんの正当性もないものの、被害にあわない選択は当時存在せず、この結果を生きる責任はわたしにあります。
ほかの人々の痛みに深く共感できるのは、この自分の痛みをよい方向にいかしていることで、自分をゆるせるようになってからは、ほかの人にも優しい気持ちをもつことができます。
ただ、虐待のおかげでこういった深い共感を得ることができた、とは思いません。
世の中から危険を完全に除去するのは不可能なので、比較的安定した家族のもとで育っても、人生の中ではとても辛い目にあうことだってあります。土台がしっかりと築かれていれば、ひとへの共感も自然と深くなるだろうし、突然の不幸なできごとにも健全な対応をすることが容易になるでしょう。

虐待がない社会が当たり前となることを望み、そういった社会をつくることを目指して行動すると共に、虐待にあっても、痛みをかかえながらでも、楽しい時間もある良い人生を送ることができる可能性がある、ということを意識しておくことも大切かなと思います。
もちろん、それには、多くのさまざまなサポートとともに、社会に生きる私たち一人一人の意識がかわり、年齢や性別、肌の色や国籍等に関わらず、全てのひとの人権や自由が大切にされる社会になる必要があります。
若い人々を見ていると、それは十分に到達できる未来だと思えます。

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