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《蝶々夫人》はどのように上演されたか(歌劇「蝶々夫人」感想文・その2)


兵庫県立芸術文化センターの《蝶々夫人》

その1では、《蝶々夫人》がそもそもどのような内容のオペラなのかを、あらすじを中心に述べました。さて、兵庫芸術県立文化センター(芸文)で行われた公演の感想を、本題としてようやく書いていきましょう。

音楽について

リブレットの批判点を色々と論いましたが、そのこととは別に、本作の大きな魅力として音楽の素晴らしさがあります。よく挙げられる二重唱やアリアはもちろんのこと、それ以外の場面で演奏される管弦楽の旋律も、きちんと聴いてみると隅から隅まで味わい深いものです。《さくらさくら》・《お江戸日本橋》・《君が代》等、日本の音楽がたくさん引用されている点は、周知のとおりでしょう。その旋律であれオリジナルのものであれ、本作では、同じモチーフが異なる場面で繰り返し利用されています。そのようにして私たちの耳に刷り込まれた旋律は、個々の場面に劇的な効果を度々もたらします(私の力量と資料とが不足しているために、具体例の提示と立ち入った分析とを展開することができず、残念でなりません)。

その音楽を演奏していたのは、佐渡裕[^5]・兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)のコンビです。佐渡は芸文の芸術監督を務めており、このコンビでの名作オペラの上演は毎夏の恒例となっています。あけすけに言うと、その演奏を私はあまり評価していません。もしかしたら、PACが三年ごとにコアメンバーを入れ替える任期付きのオーケストラであることや手厳しく評価されていることを知っているがために、余計な先入見にとらわれているところもあるのかもしれません。ともあれ、彼らの演奏を聴いて技量に感服する経験はこれまでありませんでした。今回もその印象が更新されたとは言い難いというのが、正直なところです。メリハリに欠けていて所々で失速気味の状態に陥る、というのが全体的な所感です。それでも、上述した素晴らしい音楽に瑕をつけるほど酷いというわけではありませんでした。


[^5]:本稿では、人名の敬称をすべて省略します。

出演者の歌唱はどうだったでしょうか。素晴らしかったと思います。プリマ・ドンナの高野百合絵は、リリック・ソプラノの歌手だと感じました。叙情感に溢れている反面で、ダイナミズムにやや欠けていたという印象です。しかし第一幕では、ピンカートン役の笛田博昭がかなり強い歌唱をしていて、高野に感じた不足は彼が補って余りある、という具合でした。おわりの二重唱でも、リブレットの内容どおりのエスコートを、彼がきっちりこなしていたと思います。第二幕以降は、後述する演出の素晴らしさも相まって、いじらしい少女の振る舞いを高野は十分に演じ切っているように見えました。〈ある晴れた日に〉は、流石に歌い慣れているのか、力が入り過ぎているといった印象もなく、澄んだ声を伸びやかに広げて、蝶々さんの機微を素直に伝えていました。リブレットの批判点が云々といくら考えてみても、胸が熱くなる事実は否定できないな、と感じ入った次第です。その他では、高橋淳のゴローが印象に残っています。目立った歌唱はないものの、剽軽かつ嫌らしいキャラクターとして個性的な演技をしじゅう見せていました。

演出について

次に、演出がどうだったのかを見ていきましょう。本公演の演出はずば抜けて素晴らしく、私の感激の八割をこれが占めているといっても過言ではありません。欧米で本作が上演される際の演出が日本人にとって望ましからぬ場合があると、その1で述べました。今回は日本人の手による日本での上演[^6]ですから、その点は安心していました。しかし、いわばゼロ以上を期待していなかった私にかなりのプラスを突き付けてきたので、思わぬ喜びに興奮さえしたものです。見どころを、順を追ってお伝えしましょう。


[^6]:今回の《蝶々夫人》は、2006年に栗山昌良が手掛けた演出を、彼の逝去に伴って飯塚励生の主導で再演したものです。

幕が上がって目に飛び込んできたのは、華美な飾りつけも奇を衒った要素もない、ごくシンプルなセットです。ピンカートンが契約したという家が向かって左側の手前に建っており、その右奥から、なだらかな坂が二股に分かれつつ中程まで伸びています。他に目立つものは、坂のちょうど分かれ目に植えられている桜の巨木くらいでしょうか。上演が進行するにつれて、この何でもないようなセットの機能性が徐々に明らかになってきます。まず、二股に分かれた坂の長さがわずかながら異なっており、このことが舞台上に遠近感をもたらしているのです。桜の樹が遠景の書割りの一部を隠していることも、この効果に寄与しているでしょう。そして、登場人物はすべてこの坂を通ってこちらへとやってくるため、蝶々さんの親族・友人が集う結婚式の場面では、たくさんの人たちが二本の道から放射状に広がってくる様が見えて、シチュエーションに相応しい華やかさを足し加えていました。

結婚式の場面では、更に目覚ましい演出がありました。友人一同として蝶々さんとともに登場してきたのは、たくさんの童女たちです。この配役には、15歳の元芸者の友人という設定に相応しい年頃の子役を集めてくるという点で、リアリティへの志向が表れているといえるでしょう。鮮やかな水色の着物に身を包み、舞妓をモダナイズしたような化粧におかっぱ頭という容姿を揃えた彼女たちは、設定に似つかわしい艶やかさを醸し出していました。しかし、演出の工夫はそればかりではありません。蝶の刺繍の入った白い打掛を蝶々さんも彼女たちもお揃いで羽織っていた点を、述べておくべきでしょう。このことによって彼女たちは、単に友人一同を演じたり艶やかな雰囲気を舞台にもたらしたりするばかりでなく、ハレの日を迎えた蝶々さんの心象風景を示しているようにも見えたのです。舞台の四方八方に散らばってそれぞれ気ままな振舞いをする彼女たちに、15歳の少女のあどけない喜びが分有されていたと言えましょう。その他では、叔父のボンゾが山伏風の衣装を着ていたところにも、細やかな点まで配慮が行き届いていると感心したものです。

休憩を挟んで再び幕が上がると、蝶々さんの居室にセットが作り変えられていました。打って変わって、今度は平面的な構成です。内装は、飾り気のない和風の造りです。それも、畳ではなく白いフローリングを敷いていたり洋風の椅子を置いていたりと、敢えて純和風にせずモダンな要素を取り入れて、リアリティを感じさせる工夫が凝らされていました。また、道具のことをいうと、たくさんの鳥籠が舞台の手前に積まれていた点も印象的です。実は、第一幕の結婚式の場面で、一つの鳥籠をピンカートンが蝶々さんにプレゼントしていました。それが積み上がる程の数に増えていることで、三年という月日の長さを訴えてきます。加えて、「駒鳥がまた雛を抱く幸せな季節に戻って来る」というピンカートンの言葉を蝶々さんが持ち出す際に、別様のニュアンスを彼女のセリフに含ませてもいたでしょう。更に、鳥籠というモチーフ自体が、夫の想いにとらわれている蝶々さんの境遇を示していた、ともいえるのではないでしょうか。

居室のセットはただ平面的なだけでなく、二層的でもありました。舞台の奥に障子が設えられていて、蝶々さんを訪れる人物は、その向こう側から居室へと上がるようになっていました。そのため、障子の手前(屋内)と向こう側(屋外)とで舞台の動きが二重化する時間があるのです。ヤマドリ公が訪問してくる場面では、その効果がとりわけ強くもたらされていました。障子を隔てた彼らの動きが影絵のように映し出されていた点にも、思いがけない感興を催したものです。

第二幕でも、衣装に工夫が凝らしてありました。上述のヤマドリ公は、酷い演出だと歌舞伎のような大げさな和装をさせられることもあるのですが、今回はスーツ姿です。確かに、明治時代のお金持ちであれば、時代の最先端を捉えて洋装を着こなしていたとしても不自然ではありません。むしろ、これもまたリアリティ志向の演出です。また、ノバチェックの派手なスリーピースという選択が、このキャラクターをいい塩梅でカリカチュアライズしていたとも思います。対して、蝶々さんは白地の涼し気な浴衣を身にまとっていました。第一幕の花嫁衣裳と比べて、彼女の歳相応の幼さが表現されている印象です。役を演じる高野も、それと調和した振る舞いを見せていました。ピンカートンを信じてシャープレスに食ってかかるくだりなんかは、まさしく十代後半の女の子そのものに見えたものです。

ピンカートンの帰国を知って再会の準備をする場面では、蝶々さんは第一幕の花嫁衣裳へと着替えます。上述した蝶の刺繍入りの打掛が、ここで効果的に使われていました。障子に穴を開けて港を眺めるくだりで、花嫁衣裳の蝶々さん(とスズキと息子)は、客席側に背中を向けて、障子に張り付くような姿勢でじっと留まり続けます。このとき客席からは、打掛だけが彼女の姿として見えていました。まるで一匹の蝶が串刺しにされて留められているかのようです。これは何も、端無く思いついた連想ではありません。実は、第一幕のピンカートンとの二重唱で、彼女は次のような言葉を述べていたのです。「海の向こうでは蝶はみんな、人間の手に捕えられるとピンで突き刺されて板に止められてしまうのですってね」(54)。まさしく、この内容を予言たらしめたような描写でした。そして、「ピンで突き刺されて」しまった蝶の姿が取りも直さず暗示しているのは、大きな悲劇が彼女を襲うという事実でしょう。不穏な予感を鮮烈に印象づけるこの演出は、本公演のハイライトといってもいいくらい創造的なものでした。

以上、本公演の演出について、良かった点を枚挙してきました。最後に、そのエッセンスを簡単にまとめておきましょう。まずは、あくまで全うであることです。一部の欧米人の手による演出と違って、細部に至るまで日本の文化をゆるがせにせず、かつリアリティが十分に感じられるものとなっていました。次に、蝶々さんの被害者性が仄めかされていることです。上述した鳥籠のモチーフや蝶の表象は、彼女を無垢な少女として素朴に美化するのではなく、悲恋に翻弄された被害者として仄めかしているように感じられました。いずれも、その1で述べた批判点を幾らかは克服しているものとして、私は受け止めます(とはいえ、内容そのものが転化したとはやはり言いがたく、演出の限界を同時に感じもしましたが)。更に加えると、全体として華やかであることが単純に快かったです。晴れやかな物語とは決して言いがたいけれど、蝶々さんというあどけない少女を主人公に似つかわしい華やぎが表現されていることに、快さを感じないではいられませんでした。思い返してみると、本公演を鑑賞している間は、その1で述べた「複雑な気持ち」を留保して、純粋にオペラを楽しめていたのでした。

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