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ハリウッドから谷崎へ、そして稽古場へ!

当たり前のことであるが、いろいろなことを勉強せざるをえないので、脚本の書き方や感動させるストーリーの書き方みたいなものに触れてきたが、やはり有名なのはハリウッド系の三幕ものの脚本術だろうけれども、そのなかに「ログライン」というものがあって、それは物語を1文で短く説明するもののことであるが、例えば『タイタニック』であれば
身分違いの男女が、豪華客船で出会い恋に落ちたが、今まさに沈黙しそうな船から生き延びようと必死にもがく
というもので、ほかには
An eight-year-old troublemaker must protect his house from a pair of burglars when he is accidentally left home alone by his family during Christmas vacation.
というものがあり、これは拙訳で恐縮であるけれども、「8歳のトラブルメーカーが、クリスマスのあいだ家族のせいで、偶然家にひとり取り残されたとき、二人組の泥棒から自分の家を守らねばならない」(誤訳があったら教えてほしい)と訳することができるのだが、このログラインというやつは、なんだかカッコよくないなあというのが正直なところだったけれども、もう一つ「タグライン」というものがあるらしいので、調べてみると
In space, no one can hear you scream. (Alien)
There are 3.7 trillion fish in the ocean. They’re looking for one. (Finding Nemo)
"Life is in their hands -- Death is on their minds.”(12 Angry Men)
という感じで、スローガンのような意味もあり、taglineには「オチ」という意味もあるらしいが、いずれも英語だからこそできる、あるいは英語の特性を最大限に活かしたやり方なのかもしれないなどと思うのは、当たり前のことであるが英語と日本語は当然異なる言語であるので、それぞれの特性にあったやり方があると信じたいという、小生の保守的で凝り固まった趣向を起点にした論理なのかもしれないし、そもそも映画が英語圏で発展した文化だとするならば、それに倣うのが最も合理的なのかもしれない。

つなぎ目の分らないセンテンスを幾つもつなげて行くことは、結局非常に長いセンテンスを書くことになりますから、中々技巧を要するのであります。それと云ふのが、日本語には二つのセンテンスをつなぎ合せる關係代名詞と云ふものがない。從つて、どうしてもセンテンスが短くなりがちでありますが、それを強いて繫がうとすれば、「て」だの「が」だのが頻出して、耳障りになりますので、昔から、「て」の字の多い文章は惡文だと云はれておりますのは、寔にその通りであります。では如何にして繋ぎ目をぼかすかと云いますと、此の書の第四十二頁に引用してある源氏の須磨の巻の文章、あれがその模範的な一例でありますから、もう一度あそこを開いて御覧なさい。
谷崎潤一郎『文章讀本』

学校の英語の授業では、どの先生も「英語には主語があって、日本語には主語がない」を連呼していたように小生は記憶している。ところが、谷崎のいうように関係代名詞の有無に注目してみると、別の見え方がしてくる。それで、たまに可能な限り文を区切ることなく一文が長い文章を書くことに挑戦してみている。

さらに語順についていえば、ドイツ語は「格」というものがあるために、ある程度語順が自由らしい。つまり英語は比較的語順の自由度が低いといえるし、逆にいえば、文のなかでどの位置にあるかで、役割がわかったりする。
「象は鼻が長い」の問題を知ってから、「が」と「は」の使いわけにかなり心を砕くようになった。この文の主語はどれなのかと問われて、「は」「が」「も」の前が主語と暗記していた小生は思考停止してしまった。識者によれば、主語ではなく、「主題」という考え方をすると、いろいろとスッキリしてくるらしい。

さらに、日本語は、述語を中心に文を組み立て、英語などは主語を中心に組み立てるという大きな違いがあるらしい。
日本語の場合、「説明する」という術語に
〇が~を△に説明するという文型がつく。
英語の場合、主語によって、動詞が変化する。
I am a student / You are a student / He is a student
動詞が豊かに変化するというのが、インド・ヨーロッパ語族の特徴であるらしく、ドイツ語やフランス語はかなり面倒にときには不規則に変化する。第二言語で苦労した人は多いかもしれない。

日本語は、それらとはまた別の形態をとっているし、言語上の違いは文化の違いとかなり密接にかかわるところがあると思うから、日本語についてもっと勉強しなければ、何も考えることなしに、ハリウッドの脚本術などを安易に受け入れてしまい、かえってそれがどういうふうにすれば最も活かされるかについても理解できなくなってしまうのではないかと思う。

とにかく考えていることを書き出していくことはとても重要だ。ただし、短い文章で満足してしまってはならない。言葉とは何かという哲学に挑んでいるような文章や作家が好きだ。むやみに「は」「が」を使い、むやみに一文を区切ったりしているものはあまり好きではない。谷崎は、このあたりとても自覚的で、『春琴抄』と『細雪』もそういう観点で読むととても楽しむことができる。これは、さらに新しい戯曲の言葉を考えるのにもつながるような気がしている。多くの戯曲が、短い会話ばかりでページにはだたっぴろい空間が放置されている。この空白が戯曲をとっつきにくくしている原因の一つではないだろうか。個人的には1ページあたりにみっちり文字が詰め込まれているもののほうが読み応えがあるような気がする。戯曲から漂う、「お前らで行間読めよ」という斜に構えた感じがキツい。印刷の仕方の問題もあるかもしれないが、個人的な好みだけをぶちまけていいのなら、もっと1ページあたりの情報を詰め込んでほしいし、詰め込みたい。そういう印象から、考えてもいいのではないだろうか。まあ、演劇人は演劇のことに関していえば、とても心の狭い人ばかりなので許されるはずがないと思うけれども。

『お國と五平』でも、谷崎は一文をなるべく長く書こうとしているように思える。切れ目がわかりにくくて、息遣いを合わせていくのがとても難しい。この言語をどう扱っていくべきか。今日も稽古に向かって考えたい。

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