稽古場から消えてみる:お国と五平の稽古場での思案(2)
演出家は稽古場にもう行かない。ということをやりはじめた。生活的にすべての稽古に行くのが難しくなったというのもあるけれども、そうでなくても実践してみたかったことの一つである。もちろん、全日行かないわけではない。3日に1回くらい、稽古場に行かない日を作ってみる。演出家を仲間外れにする。これで多少なりとも権威的なものから自由になれるかもしれないし、今回は、演出家を介さない俳優同士のやり取りが増えることによるメリットのほうに価値を置いてみたのである。 これは、演出家の及び知らぬところで、各々で稽古しろというような、所謂「自主稽古」ではない。前々から「欠けている」と思っていたコミュニケーションを作り出すために、自分という存在を排除してみたのである。良し悪しはさておき、演出と俳優との間のコミュニケーションはつねに「在った」。けれども、俳優同士のコミュニケーションが足りていなかったような印象がある。最終的に舞台に上がる権利と義務を負っているのは、俳優たちである。そして、舞台はつねにマニュアル(キッカケ)通り進行するわけではない。物理的な要素が多数あるようなエンターテイメント性の高い舞台ならば、安全上の理由からしてみても、マニュアル通りでなければならない場面が増えていくが、今回はその類ではない。なお、物理的な要素といったん言ってみたけれども、これはたいへん曖昧な言い方である。「物理的でない現象」(メタフィジックな現象)があったとして、それを共演者が認識しうるのかと言われたら困る。とにかく、舞台に上がったら、それは俳優同士の連携プレーでしかない。経験のある俳優だと、他の俳優のミスをうまい具合にフォローできたりするだろう。もちろん、ミスだけが連携を乱すものではない。観客の反応によっても、作品はまったく異なるものになる。笑いが起きるようなものであれば、非常にわかりやすいけれども、そうではない作風でも、観客が劇に集中しているかどうかによって作品は変化するし、せざるをえない。そうでなければ舞台芸術である意味がそもそもなくなってしまう。
ゲネ以降は、小生は観客の反応を後ろから見ることに注力している。舞台上でのトラブルの類は舞台監督に任せなければならない。どうにも判断がつかないことが発生しない限りは、初日以降は演出家は無職のクソニートである。初日が明けて以降に演出内容を変えることもあまり気が進まない。演出を変える前と後で、同じ値段で売るのだとしたら、それは詐欺にあたるかもしれないし、自分の想像力のなさを認めてしまうことになるからである。無論、適宜妥協しているつもりではあるけれど。 俳優たちは、舞台上で緊張感のある連携プレーをやっている。俯瞰している演出家と違い、彼らは虫瞰的にしか舞台に接することができない。それは限界のようにも見える。しかし、そもそも「俯瞰」しているもののほうが危険である。すべてが見える絶対的ポジションに、人間がつくことはできないのは常識である。演出家などというものは所詮、観客の仮留め、仮縫いにすぎない。俯瞰者の驕りを排除し、繊細なプログラムを、強度を保った状態で実行するためには、俳優同士が、太い線で、言葉と言葉でないところでのコミュニケーションを可能にしておかなければならない。だから、初めに議論すること、言葉で議論することをしなければならない。言葉という次元を経なければ、言葉以上の次元に到達することは不可能だからである。察することができるのは、過去のデータがあるからである。 そうなると、演出家から流れてきたものを、上から下にベルトコンベア式で次に送るというやり方では通用しない。けれども、日本の文化的なものなのか、演劇固有の制度上に起因するのか、どうしてもそのような雰囲気になってしまう。不具合が発生したときに、そのままリコールされてくる。もちろん、予め不具合が発生しないようなプログラムを組むことが、演出家の責務ではあるのだが、エラーは単なるエラーとして処理するだけではなく、さらなる創作の飛躍へと発展する可能性を秘めている。そもそも、不具合が発生しないようなプログラムを組むことは難しくない。しかし、それは決定的に面白くない作品である。ハイデッガーが「芸術とはそれ自体が謎である」と言っていたが、他者からして「わからない部分」があることが、消費に対する、芸術の定義なのかもしれない。どういうことかというと、消費 consumption の語源は「完全に取ること」らしいから、これと違うものであると言いたいのなら、「完全に取ることができないもの」「完全に取られないもの」をよりどころにするしかないからである。
また話題がそれてしまった。劇場の話から稽古場の話に移行しよう。稽古で誰かが、わずかにセリフの言い方を変えてみる。すると、その次の次の次のセリフが今までと違うようでなくては不自然に見える。演出家や共演者が認識しうるほどの大きな変化になるまでに、タイムラグが発生する。原因がわからない。聞いてみる。やっとわかる。変えるのか、変えないのか決める。そのようなことの連続である。さらに今回は、「再演」ということで、「前より良いものにしたい」と誰もが思うし、それはゼロおから作るよりも簡単なことのように思える。しかしながらコミュニケーションを怠ると、作品が繊細であれば繊細であるだけ、作品の統一性が崩壊する。PCのように、ワンクリックでアップデートできないものか。部品を一つ変えて、処理スピードを上げたりできないものか。モニターだけ変えて、ディスプレーだけ4Kに変えたりできないものか。もちろん、できない。部品を一つ変えると、違うところのコードまでぶちぶちと抜けたりちぎれたりしてしまう。PCなんかよりずっと慎重な作業になる。部品を変えるときに、そこのコードは抜いちゃダメ!って教えてくれたり、警報音が鳴ってくれればいいのだが、そんな都合のよいことはない。3週間くらいしてやっと抜いてはいけないコードが抜けていたことがわかったりする。
言いたいことがあったら(不具合があったら)、すぐ言える環境を作らなければならない。しかし、それは簡単なことではない。劇団なかゆびの稽古場に限らず、絶対に、とても価値ある指摘を、言わずにいた人がいるはずだ。出演者のほとんどが客演であるという、劇団なかゆび特有の事情でもある。勝手知ったる間柄でないと、作品にかかわる問題の指摘などできようはずがないということは常識的にわかるはずだ。惰性で忘れかけていたように思う。さらに、「言いたいことがあるならいつでもなんでも言ってね」というほぼ無意味な気休めにも安住すべきではない。ほんとうに「いつでもなんでも言ってくる」人は稀だし、ほんとうに「いつでもなんでも言っていいよ」の意味でこの発言をしている人が世間にどれくらいいるかも怪しい。
まず、議論することで思っていること・感じていることを言うこと自体のトレーニングをして、次に疑問や問題を認識した時点で言葉にする、このコミュニケーションを繰り返す。このときに、演出家の検閲を通過するというコストの削減(新しく付加されてしまう意味や権威を排除)して、円滑にやり取りが行われるように仕向けてみてはどうだろうか。という試みである。かなり小さな範囲で仮説を立てて、実践してきた。2年近く経過しても「再演」という条件も考慮せねばならないし、俳優たちのパーソナリティによっても向き不向きはあるけれども、確かに実践した意義はあったと実感している。
自分自身も積極的かつ上手くコミュニケーションが取れるほうではないと思っている。意外に思われる方もいるかもしれないが、毎日の稽古動画を見て、「最悪だ、いろいろしゃべっているのに言いたいことをまったくうまく伝えられていない」と思っているが、全然治らない。よくしゃべってしまう人は10倍しゃべらないように意識して、あまりしゃべらない人は10倍しゃべるように意識したほうがいいらしい。そこで、稽古場からたまに消えてみることにした。信頼の置ける俳優だからこそできることでもあるけれども、今後もドラマトゥルクとかそういう新しい横文字に飛びつくことなく、いろいろな創作方法を実践していきたい。