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議論することの難しさ:お國と五平の稽古場での思案(1)前編

議論することは難しい。ところが、「難しい」という述語は、それ以上考えるのが面倒な場合にぶつけるものである。そこで、議論することそのものについてよく吟味したい。これは議論の場に向かう前に考えておかなければならないことであり、演出家として稽古場作りの課題だと強く感じていることに深く関わることでもある。

個人的に、いろいろな場で「議論」した経験がある。かつては大学の講義やゼミ、就職活動での「グループディスカッション」、最近はありがたいことに演出家や劇作家として議論の場に参加することもあるし、稽古場も一般化して言うなら議論する場である。ところによっては「対話」と言いかえることもあるだろう。豊富な経験とは決して言えないが、それでも見えるものはあった。議論そのものへの思考のズレを感じることが小生にはよくある。きちんと言葉を定義するのなら、「答えを導く作業」と言っておきたい。「みんな違ってみんないい」は結論ではなく、前提である。しかし、小生の子ども時代はこの標語が教室にデカデカと張り出されるような時代である。相対主義は単なる羅列でしかない。羅列されたあとに、人々は動き出す。すぐに混沌が訪れるということは少し考えればわかることである。それでも人々は「みんな違ってみんないい」の呪縛に未だに囚われているような気がする。「みんな違ってみんないい」なら、議論する必要はない。しかし、喫緊の課題に挑んでいるわけではない学生同士の議論ではここで闘争状態になるのを回避する傾向にある。

さらにこの傾向が出やすいのが、やはり人文科学系の学生たちとの議論だったという印象がある。小生が所属していた政策学部は、社会科学系の学部で、ディベートのようなものを行う講義も少なくなかった。就職活動の経験があればわかるかもしれないが、たまに「ミニひろゆき」みたいな学生と対峙する羽目にもなる。法律、政治、経済の議論はどうもその社会的な存在意義からして、闘争状態になりやすいのかもしれない。つまり、どちらが「もっともらしいか」を争い、結果として導かれた答えを現実に採用しなければならないし、その答え如何はともすれば生死にかかわることになる。もちろん、これは言い過ぎかもしれない。小生が感じる傾向とこれを読んでいるあなた自身のあり方は異なるもしれない。しかし、学問は社会的に生きている。どこでどう求められ、営まれてきたかによって、それを学ぶ学生たちに影響を与えないはすがない。
小生がこのように考えるようになったのは、学生時代に面食らった経験があるからだ。

(つづく)

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