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『京の園』執筆ノート②自由について

『京の園』執筆ノートを公開します。ネタバレを含む部分もありますが、ネタバレした程度で面白くなくなるようであれば、その程度のものだと意気込んでいます。もちろん、どのタイミングでお読みになるのかはお任せしますが、こちらを読んだうえで、観てみたいとお思いになっていただけますと、作家としてもやり甲斐があります。少しでもご興味ありましたら、ぜひご一読のほどお願いします。

 自由だからといって、幸福だろうか。不自由だからといって、不幸だろうか。そうとは限らない。

「創作する者にとっては貧困というものはなく、貧しい取るに足らぬ場所というものもないからです。そしてたとえあなたが牢獄に囚われの身となっていようと、壁に遮られて世の物音が何一つあなたの感覚にまで達しないとしても――それでもあなたにはまだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、あの基調な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が」(リルケ(高安国世訳)『若き詩人への手紙』新潮文庫、1967年、16頁)

もちろん、この思考を悪用して「だから、お前たちは不自由なままでいい」という支配者もいるから、それには警戒しなくてはならない。しかし「自由とは何か」という思考を放棄し、自由な状態こそ理想であり、不自由なものは唾棄すべきと信じ込むことを、小生は正しいと思わない。社会心理学者のE.フロムは、市場の法則が社会を支配し、すべての隣人が競争者同士となることで、「無関心の精神」が人間関係を貫き、近代人の孤独感、無力感に拍車がかけられることを指摘した(『自由からの逃走』)。自由は、孤独という副作用を人間にもたらす。その孤独に耐えられなかった者、あるいは経済的に無益な、「生きて、生産し、富を生み出す」存在になれなかった者たちが、全体主義に向かったと展開する仮説についてはいったん置くとしよう。本作で語られるのは、より小さな世界、まだそこまで巨大な流れをつくる前の段階の話である。「私は自由か」、と芳明は考えていた。そして「自由だった」と光男からの手紙で理解した。まだ彼は「自由」の持つ副作用について知らなかった。完全な自由を得るまでに人類はいまだ到達していない。自由を追い求めて旅した先に、幸福が約束されているとは限らない。しかし、人には「不自由」のほうが認識しやすいから、自由の副作用の一つ、孤独を彼はまだ知らないのである。戯曲のなかでは、芳明はただ自由を得た喜びに酔いしれているにすぎない。
 もちろん、妥協することが大人になることだと言いたい気持ちはない。ここでいう「大人になる」というのは、所謂身の程を「弁える」という意味であり、正しくない矛盾した社会を受け入れるという意味であり、妥協した者はやがてその妥協を次世代にも強制するだろう。だから、物語の過程ではあえて不自由なものを徹底的に批判したり、悪いものに見えるよう努めた。否というのなら、それで好し、応、というのならそれも好し、少なくとも戯曲のうちにある問題が現在にも地続きであり、未だ解決されていないということを理解してもらいたいと思う。


【公演情報】
『桜の園』×『源氏物語』×京都。
明倫小学校(現・京都芸術センター)に通った子どもたちの葛藤を描く新作長編、上演決定!

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劇団なかゆび
Nakayubi.-13『京の園』

2022年1月13日(木)〜16日(日)
京都芸術センター 講堂

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