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戯曲論考①「日本の――」

 創作の過程をオープンにしていくこの企画、第2回目の更新は、戯曲に関する神田真直自身による論考の掲載です。戯曲論考は、全3回の掲載を予定しています。
 第1回目は、本作の主題「日本」について、です。ご一読くださいませ。

 この戯曲を執筆するために取材したテキスト群を、一つの文章ですべて挙げることは困難である。政治と、文学と、哲学とが演劇という形式に束ねられ、複雑に絡み合って一個の作品となっている。
 ひとまず、この戯曲が相手取っている「日本」という主題について触れておこうと思う。

 丸山眞男は『日本の思想』のなかで、森鴎外について『かのように』を例示し、「天皇制の虚構をあれほど鋭く鮮やかに表現した点で、鴎外は「特殊」な知識人のなかでも特殊であった」と評している。丸山はこの前の部分で、「文学者」は「(鴎外のような例は別として)官僚制の階梯からの脱落者または直接的環境(家と郷土)からの遁走者であるか、さもなくば、政治運動への挫折感を補完するために文学に入ったものが少なくな」いという。重点を変えていえば、文学の担い手の多くは劣等生だったが、森鴎外は優等生出身の文学者という点で稀な存在であるということである。その後、丸山は夏目漱石を「思い出し」、「トライチケ」における漱石の指摘を引くが、小生は三島由紀夫を思い出した。
 丸山が看過してはならないという「文学と政治の馳せくらべの意識の存続」は、三島の割腹自殺とどう関わっているだろうか。三島は鴎外とは違い、劣等生出身といえる。少なくとも劣等生の自覚を強く三島は抱いていた。三島のコンプレックスは、1970年11月25日に絶頂を迎えることになるわけであるが、このあたりから「文学と政治の馳せくらべの意識」は古いものとなっていったのではないだろうか。1972年に蜷川幸雄の演出によって初演された「ぼくらが非情の大河を下るときー新宿薔薇戦争ー」(清水邦夫作)では、青年(詩人)が死体を抱えて闇夜に消えていく。彼らが政治と文学であったとしたら?  彼らは、どこにいってしまったのだろうか。少なくとも、この国のどこかに潜んでいることだけは間違いない。
 1970年代に日本は高度経済成長期を終え、次に始まるのは「浄化」である。新宿だけではない。京都では1972年に「京都市市街地警官整備条例」が策定された。中心を問題にすることは古びた意識として、興味をもたれなくなる。その代わりに「みんな」が闊歩しはじめる。「みんなの公園」「みんなの劇場」「みんなの街」…………。「みんなのためなら」を否定すると「旧態依然」と嘲笑されただろう。理想=「完璧」を目指すことは諦められた。完璧な絶望が存在しないように。神さまは小さい頃にしかいない。
 「みんな」が力を持ち始めたころ、「かのように」も重視されはじめる。革命時代は過ぎ去り、広告の時代がやってきたのである。なにごとも起こってはいないのに、『起こっている、「かのように」』たちまち宣伝がおこなわれる。1970年代以降の日本は「打算的な思慮分別」(キルケゴール)の時代に入ってゆく。そして「打算的な思慮分別」とは、「かのように」を受け入れることである。芯がなくても、芯がある「かのように」振る舞い、その技術が高い者が優等生になれる。しかし、ふくれあがった「かのように」は、やがてはじけてしまう。経済的にはバブルの崩壊、政治的には昭和天皇の崩御、学術的にはニュー・アカにとってのソーカル事件を挙げてもいいかもしれない。芸術は弱者なので、バブル崩壊で資金を失うし、昭和天皇の崩御に際しての自粛ブームに為す術もない。こうして日本は終わった。21世紀は過去に得た資産を食いつぶす形でかろうじて延命されているにすぎない。
 ただ「かのように」の仕組みはインターネットやゲームによって生き残ることができた。自分自身である「かのように」動くアカウントや主人公を操作することで、終わった国、日本に住む本来の自分自身から逃れ、忘れることができる。たくさんの人がほんとうに「いいね」と言った「かのように」情報が拡散される。さらにその「かのように」が、価値を生む「かのように」の広告に利用される。あらゆるものの実在はもはや「かのように」に埋もれ、触れることはほとんどできない。そもそも、触れるという体験も、脳への直接的な刺激によって「かのように」得られるようになりはじめている。

 平成は、昭和の残りカスである。安全だが、おもしろくない。肉体的にも精神的にも、傷を負わなければ成長=発展はありえない。すべての指標が下降線を辿っているが、かつてよりもどん底ではない。自分だけでも踏みとどまろうとすることも、認められている。本音と建前の対立軸は、「かのように」に埋め立てられた。
 時折、「かのように」が「かのように」であることが露呈する。支離滅裂な発言を繰り返す哀れな骸たちは、メディアの恰好の餌食となる。記者会見でしどろもどろになりながら弁明するのはプラトンではなくソクラテス本人である。プラトンが書いたほど、ソクラテスは聡明ではなかった。プラトンがソクラテスを聡明である「かのように」書いたに過ぎなかったのである。毒杯を仰ぎ、死ななければ、彼は救済を受けられない。死ねば、救済を受ける必要がなくなる。
 ただ死刑制度もあるし、デマゴーグも横行している日本が、幸いにして古代ギリシャと異なるのは、毒杯を仰ぐほどの切迫した状況に即座に追い込まれることがない点である。死ななければならないわけではあるまい。生きるべきか、死ぬべきか、それが問題であるというわけではない。「かのように」は敵ではなく、状況である。あえて、「かのように」に触れ、そこで生まれる摩擦熱を以て新しい時代へのエネルギーにしたい。
 長々と書いたが、これが戯曲の主題である。
                     2018年10月16日 神田真直


◇公演情報
 Nakayubi.-9「象徴の詩人;My Dad was God」
【日時】2018年11月23日(金)15:00/20:00
          24日(土)14:00/19:00
          25日(日)13:00
【チケット】前売:1,500円/高校生以下無料
【ご予約】https://www.quartet-online.net/ticket/symbolpoets
【会場】人間座スタジオ(京都市左京区下鴨東高木町11)
※その他、詳細な公演情報は劇団ホームページをご覧ください。
 劇団なかゆびHP:https://nakayubi.wordpress.com/

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