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『京の園』執筆ノート③まだみぬ観客のために

『京の園』執筆ノートを公開します。ネタバレを含む部分もありますが、ネタバレした程度で面白くなくなるようであれば、その程度のものだと意気込んでいます。もちろん、どのタイミングでお読みになるのかはお任せしますが、こちらを読んだうえで、観てみたいとお思いになっていただけますと、作家としてもやり甲斐があります。少しでもご興味ありましたら、ぜひご一読のほどお願いします。

舞台芸術とパチンコ・パチスロはよく似ている。いずれも面白さを理解し、のめり込むようになるまでのイニシャルコストがものすごく高い。だからもっと手軽に楽しめるものへ、人は流れていく。

この二つは、世間様からコロナ禍でも似たような御指南を受けた。少し事情が異なるのは、舞台芸術業界では作り手が主に非難され、パチンコ・パチスロ業界では客が主に矢面に立った、というところだろうか。両者は、カタギと見なされていないきらいがある。「好きでやってんだろ」「自己責任」「興味ないので救わなくていい」。
パチンコ・パチスロ業界は、大手に限るかもしれないが、資本力があって、そのうえ社会からの非難になれている。ドシッと構えていられるだけの、「一定の支持」が揺るぎないのだと思われる。一方、舞台芸術業界はといえば、それはそれはみじめなものだった。何よりもまず、重鎮たちの「炎上」である。その炎上すら、ほのかな灯り程度でしかなかったのではないか。このショボいSNS上だけのボヤ騒ぎを目の当たりにして業界の外に対する影響力の乏しさを痛感したものだった。

舞台芸術も、パチンコ・パチスロも、のめり込むようになるまでのイニシャルコストが高いという意味で、共通点がある。

まず、舞台芸術の場合。あるとき、ひとりの若者が試しに一本見てみようと思ったとする。彼には劇場がどこにあるかすらわからない。有名な芸能人が出演しているものを観たいと思う。検索して、見つけてくる。ところが、人気の舞台はかなり前から予約しないといけないことを知る。そのうえ、料金も安い席でも7000円だったりする、お試しで一本にしてはあまりに高く感じるだろう。かりに無理をして安い二階席で予約できたとしても、小粒サイズくらいにしか俳優は見えない。がっかりする。これなら自宅で配信サービスでドラマを観たり、映画館の大きな画面で映画を観たりしたほうがいいと理解する。大きな劇場を諦めるルートをとった若者は、2000円〜3000円代の小劇場を知る。チラシを見ても、何が何だかさっぱりな情報まみれである。知らない作家、知らない演出家、知らない俳優、知らない劇場。この時点でまだモチベーションが消えていない若者は、SNSで検索をかけてみる。作家の鬱イート、演出家のイタイ発言、うわべで褒め合う俳優たちの投稿。ここまで耐えてくれた猛者たちが、アーティスティックにカッコつけすぎてみにくくなっているHPからなんとか予約フォームを発見し、予約する。ところが彼らに立ちはだかる最後の壁は、小劇場への道行きである。住宅街の中にひっそりと周囲の迷惑にならぬように佇む劇場。Google mapから見放されることもある。入り口がどこかもわからない。ここで、開演時間に間に合わず自らリタイアするものもいれば、開演数分後になんとか到着し、見ず知らずのスタッフとともにまるで裏口から潜入するかのように暗いところを案内され、席を決めることもできずに着席という金を払っているのに迷惑もの扱いスタートという苦い体験をするものもいる。これらをすべて乗り越えて観た演劇が面白い確率はあまりに低い。そして若者は、二度と劇場に訪れることはないのであった。
今、舞台芸術を楽しむことができている人々はこれらをすべて乗り越えた猛者たちか、文化的に恵まれた環境に育ったため、保護者や友人に案内役を頼めた人かのどちらかではないだろうか。また、自分の好きな舞台芸術がどんなタイプのものかを理解するためには、たくさん観るしかない。10本、50本、100本観てようやく自分の好みというものがわかってくるのだとすれば、そのすべてが3000円だとしても、30,000円、150,000円、300,000円かけて、やっとスタート地点に立てたということになる。物価が上がっているのに、賃金が上がらないという状況に置かれる日本の若者のうち、果たしてどれくらいが、この資金を用意する気になるだろうか。まっとうな経済感覚ならあり得ない。それだけではない。お金に加えて、観劇には配信サービスよりも、映画よりも、時間の余裕がなければならない。ところが、日本の若者は賃金が安すぎるので、たくさん働かなければならない(悲しいのは、たくさん働いても賃金が変わらないという劣悪な労働環境もあるが、この話はいったん置こう)。これだけの難関をクリアした者たちが、小劇場の席を埋める。多くが自由席だから早く来た方がいいと知り、余裕を持って来場する。近くの店を知る。コンテクストを知る。いまアツい若手を知る。応援したい劇団を見出す。ちんぷんかんぷんだった前衛的な作品もわかった気になる。SNSをフォローして、随時情報を得るようになる。
現在、舞台芸術を楽しむことができている人、観劇後あーだこーだ考えたり、言い合える環境にいる人は、それ自体が奇跡的なことである。もし、彼らが舞台芸術をもっとたくさんの人に見てほしいと思うのなら、小生が伝えたいことは、この奇跡的な状況にあまり酔いしれるべきではない、ということだ。彼らは自分たちが奇跡的な状況にいることを理解していないわけではない。だからこそ、奇跡を共有しようとするのだが、それがかえって狂信的な振舞いに映ることもあるということである。このことは、かつて80年代くらいまでの劇団が持っていたであろう、小さなカリスマのもとに集うシステムを現代風にアレンジしたオンラインサロンビジネスに向けられる眼差しに近いものがある。

次に、パチンコ・パチスロの場合。ある若者が成人したし、自由に使えるお金も得たので、どの地域にもあるパチンコ・パチスロの店にいちど入って遊んでみようと思う。店に入ると、その音に驚くだろう。普通の話し声ではほとんど会話できない。死んだ目でまばたきすることなく、マシンを見つめる先達一同。意外と客層は老若男女といった感じ。どちらかといえば年配、男性が多いだろう。いろいろなマシンがある。パチンコ屋の設えは舞台芸術の公演チラシみたいに凄まじい情報量で溢れかえる。地域にもよるが、コワイ人もいる。長いこと立ち止まっていると白い目で見られることもある。迷惑になるのいけないので、とりあえず座ってみる。ビギナーならここでは1円パチンコ(いちぱち)を選ぶほうがいい。4円パチンコ(よんぱち)はそこそこ資金がないと、一瞬でお金が溶ける。若者の予算は3,000円がいいところかもしれない。若者は金がないが情報には溢れた社会に育ったがために、知らないものに10,000円以上を注ぎ込むというような行為に走りにくい。ここで奇跡が起こって、すぐに大当たりが出て、3,000円が20,000円になったりすることがあって、彼らはあとあとのめり込むことになる。まるではじめて観た小劇場が、たまたまのちに大成する団体や個人だったというような体験である。
さて、いちぱちで芳しくない結果に終わる彼だが、マシンの上に何やらメーターらしきものがあるのに気がつく。まわりを見ると、そのメーターを見てからどこに座るか決めているようだ。ここにはどんな情報があるのか。ググってみると、大当たりするまでの回転数ということがわかる。少ない回転数で幾度も大当たりが来ているなら調子のいい台、まったく来ていないなら調子の悪い台ということらしい。もちろん、逆を張るというか、もっと広い観点から判断して調子が悪く見えるがそろそろ「吹く」んじゃないかとか考えたりする。そして、そういう情報はインターネットにも公式・非公式の両方でたくさん公開されていたりする。さらにマシンにも、パチンコなら海物語、パチスロならジャグラーというわかりやすいもののほかに、もっと手順が複雑なものがあったり、大当たりの出玉は少ないが大当たりまでの回転数が短く設定されている「甘デジ」という種類のものがあったり、北斗の拳やエヴァ、リゼロ、シンフォギアといったアニメとコラボしたマシンもある。そうやって知ることで、はじめて入店したころにはただの下品な装飾に見えていたものが、必要な情報であることを理解し始めていく。これも舞台芸術の公演チラシに似ている。舞台芸術の公演チラシは知らない人からすると、圧倒的な情報量だと思うが、慣れてくると、何が「自分にとって」必要な情報か見えてくる。
もちろん、こうしたたくさんの情報を有効に活用することができるようになるまで、かなり負ける。10,000円では絶対に済まない。30,000円でも無理だろう。最低でも100,000円はかかるのではないか。そしてこうなったときには、このイニシャルコストを取り返そうと躍起になるから、戻れなくなる。しかし、お金のない若者、手軽に楽しめるものでないといけない若者が多数だとするなら、なかなかその段階まで生き残ることは難しい。アニメのマシンが最近増えているのは、減った若年層を獲得するためのメーカーおよび店舗の策である。

今ここで想定した登場人物「若者」は、友達がいないものとした。彼に、舞台芸術を、あるいはパチンコ・パチスロを、教えてくれる友達がいれば、解決できる課題かもしれない。ところがここにちょっと面倒な傾向があるように思う。
「舞台芸術を教える」という場合も、「パチンコ・パチスロを教える」という場合も、いずれにしろ知性が必要であることには変わりない。しかし、「舞台芸術を教える」という場合、どうしても「高尚なことを愚かな彼に教える」という姿勢に見えてしまいがちではないだろうか。逆に、「パチンコ・パチスロを教える」という場合だと、「悪い遊びを教える」という意識が教える側にも教わる側にも多少なりともありはしないだろうか。この違いはそのまま両娯楽の文化的背景によるものだろう。

舞台芸術とパチンコ・パチスロはよく似ている。身体にインストールするための容量が大きいという点において、二つは共通するところがある。いずれも手軽に楽しめる娯楽が増えるにつれて、苦戦を強いられている。ともに、コロナ禍において世間様から手厳しいご指導を受けた。ほんとうは互いに学ぶところがあると言って締めたいが、やはり資本力が大きく異なるため、単純な比較はできない。あるいは舞台芸術業界にとってなら、一方的に学ぶことがあるかもしれない。個人的には、あらゆる町にあるパチンコ屋のうち何百分の一かでも劇場にしてくれれば、もっと豊かな社会になるのにと思うが、これは小生が上から目線のクソエリートだからにほかならない。Artもcultureもわが国に〈もともとあったものではない〉。コムズカシイ横文字を並び立て、誰も聞いてくれないとメランコリイに浸っていればいい。
この状況。つまり、コムズカシイ話をするエリート。傾聴しない民衆。かつては民衆がエリートを尊敬していた頃もあったかもしれない。しかし、今はどうだろう。口には出さないが、心のどこかで、エリートは民衆を「愚か」と見下し、民衆はエリートを「世間知らずのボンボン」と蔑んでいるのではないだろうか。本来なら、もっと本格的に衝突すべきだろう。ところが、特にエリート側はカッコつけてしまうから、対立が顕在化しにくい。分断を作るべきではない、と偽善者は言うかもしれないが、分断してしまったものを分断ではないと言い張ってしまうことのほうが危険だろう。分断があるなら、それは分断として認めるべきである。対話は、建前の探り合いではなく、衝突でなければならない。

そこで、今回の『京の園』の件である。本作は、かなり京都という土地そのものに批判的な見方をしている。地域のなかに芸術家という他者が入り込むことに意義があるとするなら、「ウザいが必要な存在」としてかかわるという方向もあるのではないか。町おこしというような名目で地方に芸術作品や芸術家が入り込む企画が各所で行われるようになって久しいが、その土地の良さをアピールするという姿勢がどうも白々しいと小生は感じてしまうことがある。幸い、京都という土地は褒められることにも貶されることにも慣れっ子なご様子なので、多少のことではびくともしないだけの誇りをもっておられることかと存ずるが、ここは一つ、こなまいきな大阪生まれの若者の傍目八目に少しだけ耳を傾けていただきたい。そこにもし、何か独自の発見があれば小生にとって、最上の悦びである。


【公演情報】
『桜の園』×『源氏物語』×京都。
明倫小学校(現・京都芸術センター)に通った子どもたちの葛藤を描く新作長編、上演決定!

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劇団なかゆび
Nakayubi.-13『京の園』

2022年1月13日(木)〜16日(日)
京都芸術センター 講堂

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