通し映像、稽古映像を見ながら
ある瞬間を切り取って、別のやり方はないかを考える。「こうならざるをえない」と自分で納得できなければ、観客も納得してくれない。別のやり方が考えられてしまう時点で、その手法に強度があるとは言えない。そういう思想に基づいた演出があるとして、さらに問いかけてみよう。これとは別の思想に基づいた演出はありえるのか。これ以外ありえないというデカルト的確信を目指す。「そこはそうじゃないでしょう」と観客に思わせてしまう表現を受け入れるべきではない。「そこをそうくるか」や「気づいたらそうなっていた」という知的驚嘆に向かって思考が傾いてしまうのは、小生の癖である。事前にデッサンを描く。配色も予め決める。そして端から順に書いていく。あまり効果的でないところが見つかれば、随時修正していく。デッサンの時点での間違いに気が付くこともある。初めからやり直したいが時間がない。アイデア待ち。そんなことをただ繰り返す。
理詰めになればなるほど詰まらなくなるような気がしてくる。感覚的だったのは、デッサンを書いている瞬間だけで、以降は予算とスケジュール(空間と時間)の問題しか残されていない。物理的な問題は、知性によって説明可能な問題である。ところが、説明不可能性もまた芸術の領域であるとするならば、次に考えなければならないのは、説明不可能性をどこに置くのか、どのように操作するのか、ということになる。
説明できないことを、どのように説明すべきなのだろうか。説明しなければ、納得は得られない。それは主従関係においてしか実行されえないコマンドである。あるいは「とにかくいっぺんなんとなくやってみてから考える」が、落としどころになる。一歩進んだような感覚に陥る。説明不可能性を、俳優の身体に押し込んだだけのことである。この行為は、俳優が人間であるのをいいことにつけこんだにすぎない。
ひょっとすると、まだもっと繊細に、小さく、観客の想像力をはるかに凌駕するレベルで、ものを見ることができるのかもしれない。すごい人はそれをやっていて、それができるからすごい人なのかもしれない。それを伝えるための言葉を持っていなければならない。この言葉を手にするために日々の鍛錬が必要である。
圧倒的な説明能力。これは単に相手を屈服させるための技術にほかならない。話が堂々巡りな気がする。結局、どこまで行っても自分の思想は闘争的な姿勢になってしまう。そして、誰かがどこかで、許し、受け入れて、寛容にならざるをえない。それを、「シワ寄せが行っている」と表現するか、されるか、「支えている」と表現するか、されるかの違いである。
他者と作業するのはしんどい。いろいろ考えていても、相手次第ですべて水泡に帰すこともある。いろいろ考えていても、考えが及んでいないところに落とし穴があったりする。いろいろ考えていても、相手を傷つけてしまうことがある。資本主義は、人間が一人で生きていくことを目指してつくられた仕組みである。生産し、富を生み出しさえすれば、ほかにいかなる関係もいらない、しらがみのない、自由な環境を得ることができる。しかし、現実はもっと混沌としていて、資本主義社会とそれ以外のスタイルの社会の悪いとこ取りのような状態に陥ることも少なくない。
思い出した。資本主義的ではない部分を求めて、集団創作に足を突っ込んだのであった。この社会のクソな部分を考えるために、この面倒な集団創作に取り組み続けてきたのであった。今日も明日もこれからも、ウジウジ考えながら、稽古に向かう。