エマニュエル・トッド著『西洋の敗北』を読む

エマニュエル・トッドの新著『西洋の敗北』がフランスで出版されたと知った。なんでもウクライナでの戦争を中心に世界情勢の混乱について書いた本だとのことで、今年1月にフランスで発売されると評判となり、フランスのベストセラーリストにも入ったらしい。

アナール学派に連なる歴史家トッドは、この本でいまの世界秩序の混乱の原因がロシアよりもアメリカ合衆国にあると指摘している。ロシアでもこの本は、フランスでの発売と同時に大いに話題になったと聞く。

『帝国以後』を読んだのは、もうかれこれ二十年以上も前になるが、小生はそれ以来のトッド信奉者である。
「これほど独創性に富むデータ解釈を闊達に展開できる作家は珍しい」
そう尊信してきた。

ただし、小生自身が読書家でないので、不肖の信奉者であることは認めざるをえない。情けないことに日本語に翻訳されたトッドの著作の三分の一も読んでいない。加えて読んだ著作も新書がほとんどだ。それでも今回の『西洋の敗北』は特別に興味がわき、フランスから取り寄せ、仏和辞典を引き引き、さび付いた語学力を嘆きつつ読んでみた。するとこれが滅法、面白い。

まだ読み始めなのだが、備忘録をかねて、その内容をこのNoteで紹介すれば、もしかしたら同好の士のお役に立てるのではないかと思った次第である。『西洋の敗北』は、いまの時局を扱った本である。いつになるかわからない邦訳の出版を待っていたら、面白みも半減してしまうに違いない。
思い立ったが吉日で早速始めてみたが、七十余歳の手習いである。知力と気力と体力を保ち、最後まで続けられるのか。はなはだ不安ではあるが、ご笑覧いただければ幸甚だ。

戦争で予期されていなかった十の事柄

「世界大戦がとくにそうなのだが、戦争というものは、その大半が想定通りには進まない。今回の戦争もそうだった」

トッドは『西洋の敗北』の序論でそう書く。トッドは書いていないが、戦いが想定通りに進んでいないと判明した時点で、即座に作戦を練り直せるか否か。そこが勝敗の分かれ目になることは珍しくない。

戦いが始まる前に、立派な作戦を徹底的に練り上げることも大事である。だが、戦いが始まった後、予期していなかった事象が発生したら、非常な労苦とともに立案したものであっても、事前に立てた「立派な作戦」を躊躇せずに破棄し、ゼロから作戦を練り直し、いかに君子らしい豹変ぶりを示せるのか。そこが重要だということがよく言われる。

ケインズが実際には言っていないが、ケインズの言葉として世間に知られている次の言葉に通じるところもあるだろう。
“When the facts change, I change my mind. What do you do, sir?”

さて、話を『西洋の敗北』に戻そう。トッドはウクライナでの戦争に関して当初、予期されていなかった主だった事柄として次の十個を挙げている。

一、永遠平和が樹立されたと思われていたヨーロッパで戦争が勃発した。しかも国家対国家の本格的な戦争の勃発だった。

以下はトッドが書いていないことではあるが、EUは、ド・ゴールとアデナウアーという二人の大政治家がヨーロッパに平和をもたらすために構想したものだなどと小生は教わってきたから、ヨーロッパで戦争が起きたことには本当に驚かされた。
ただ、フランスの作家ミシェル・ウエルベックは、ウクライナの戦争に関して「あれは多かれ少なかれ旧ソ連圏内の紛争だ。ヨーロッパの国が隣国に侵される危険が再浮上したとは考えていない」と挑発的な発言していて、これもこの作家らしい慧眼と感じてしまう。

二、アメリカとロシアが対立することになった。

アメリカの主要な仮想敵国は十年以上前から中国だった。アメリカ政府の強硬な対中政策は、民主党と共和党というアメリカ国内の二大政党の両方から支持されていた。ところが実際に戦争が起きると、アメリカの敵は中国ではなくロシアだった。

三、ウクライナが軍事的に抵抗できた。

ウクライナは早晩、屈するというのが大方の予想だったが、そうはならなかった。ロシアがウクライナを破綻国家として過小評価していたことは否めない。ロシアはウクライナという六〇万三七〇〇平方キロメートルの国に十万~十二万の兵力しか派遣しなかった。トッドが比較に出すのは、一九六八年のプラハの春だ。あのときソ連とその衛星国は、チェコスロバキアという十二万七九〇〇平方キロメートルの国に五十万の兵力を派遣していた。

ロシアがウクライナを破綻国家とみなしていたのも理由のないことではない。一九九一年の独立以来、ウクライナの国民の数は、国外移住や出生数の低下で約一一〇〇万人も減っていた。オリガルヒが支配する国となり、汚職の蔓延も尋常ではなかった。代理出産の一大拠点となっていて、まるで国も住民も身売りしているかのようだった。

NATOからの兵器の提供があったとはいえ、破綻同然の国がそこまで激しく抵抗できるのは誰も想定していなかった。このことに関してトッドは、こんなことを書いている。

「ウクライナが戦争をすることに生きる理由、自国の存在理由を見出すとは誰も予見できなかった」

小生はこれが何を意味するのかよくわからない。本を読み進めれば、わかるのではないかと期待している。

四、ロシア経済が制裁を持ちこたえた。

開戦直後、西側の経済制裁、とりわけSWIFTからの排除によってロシア経済は苦しむと言われていたが、そうはならなかった。トッドはここでダヴィッド・トゥルトリの『ロシア──大国の復興』という開戦の数ヵ月前にフランスで刊行されていた本に言及している。この本には、ロシアが2014年の西側による経済制裁に適応した後、金融や情報通信の両面で自立できるように準備してきたことが書かれているという。

トッドはこう書いている。
「フランスの政治家やジャーナリストのなかに、好奇心からこの本を読んだ人が数人でもいたら、自分たちの金融力をバカバカしいほど過信せずにすんだかもしれない」

フランスの政治家は、日本やアメリカの政治家より本を読んでいるイメージが小生にはあったが、そうでもないということなのだろう。フランスの経済・財務・産業及びデジタル主権大臣を務めるブリュノ・ル・メールは、政界でも知性派だという評判であり、前出の小説家ウエルベックの小説『滅ぼす』の執筆にも協力して、その作品内にある意味で登場している人物である。そのル・メールが、ロシアをSWIFTから排除する際、これは「金融の核爆弾」だと脅していたことを小生は思い出した。いまル・メールは、あの発言を人々の記憶から取り除きたいとでも思っているのだろうか。

ここまで書いてすっかり疲れきってしまったので、本日はここまでにする。「予期していなかった事柄」の残りの六個は次回、紹介することにしよう。


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