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オームの光、路地裏の闇

中流階級の両親の元に生まれ、地方都市で育って、足るも不足もない恵まれつつも色のない幼少期を過ごしてきた僕は、ずっと育った街のことが好きじゃなかった。

一芸に秀でた人や自分をアップデートする人はみんな東京に出て行く。つまり、地方に住むことを決めた人というのは少なからずそういう進化と距離を取ることを決めた人たちだ。そんな人たちと一体何を話せば良いんだ。

地方から都会の大学に通っていた僕は地元の人たちをそんなふうに見ていた。今思うとなんて傲慢な考え方なんだと思うけれど、当時の僕は大真面目にそんな風に考えていたんだから今思うと当時の自分の視野狭窄ぶりは本当に怖い。

大学を卒業して、やっと自分で住む場所を選べるようになってからは、モラトリアム海外留学をしてみたり、イケイケどんどん都会暮らしをしてみたりしながら2年に1回は住む場所を変えていた。都会暮らしにも慣れてきたら今度は地方移住してみたりもした。(地方暮らしをあんなに軽蔑していたのに)

そんなわけで歳の割にいろんな街に住んでいるし、地方に移住したことで人口が減っていく大きな流れの中で、街をどうやって活性化するかということが自分ゴトになっていたりもする。

#暮らしたい未来のまち

という企画を見つけたので、それについて考えてみたりする。

僕が育った街は、いわゆる地方のベッドタウンで、都会に働きに出る人たちが家を建てて子育てをする場所として開発された場所だった。だから、生活に必要な店やインフラは割と整備されていたし、子育てや教育に必要な環境も整っていたと思う。

舗装された道路、幹線道路沿いにある家電量販店や飲食チェーン店、広い駐車場を持つスーパー、駅前には塾があって、どの家からも10-15分歩けば学校に着く。車で郊外に出れば大型商業施設があって買い物と子供の遊び場が一緒くたになっている。
一つの場所に効率よく人を集め、必要な設備が効率よく並べられ、家族で住み、暮らす街として素晴らしくデザインされていた。わかりやすく言うと無駄がなかった。そして、そんな街をとても退屈に思って過ごしていた。

とにかく他の街で暮らすことに憧れていた僕は、大学を卒業してスペインに渡った。バレンシアという海辺の街だった。空が青くて海が近くて、近代的な建物があった。街にはオレンジの木が生えている。

↓スペインに着いて最初に撮った写真

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言葉も通じない知り合って間もない友達とコロナビールを片手にビーチに行き、砂浜に座って「ワタシノ ナマエハ アルベルト デス」とかつまらないことをやっていた。海ってなんでこんなに人を惹きつけるんだろう。本当に不思議だ。

あと、Ciudad de las Artes y las Ciencias(芸術科学都市とでも訳せるだろうか)という区画があって、風の谷のナウシカに出てくる「オーム」みたいなヘンテコなでっかい建物やなんだか先進的な形をした建築物が建っている。住んでいた家からは20分くらい歩くんだけど、ここに至るまで昔の運河を公園にした区画がずっと続いていて、ランニングするとすごく気持ちがいい。平日の昼休みとかに走ってる人やバスケしてる人、公園に置いてある器具を使って筋トレする人とかがたくさんいて、運動習慣が根付いていることが窺い知れる。

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そして、このお国の魂とも言えるフットボールが生活の中心にある。これはバレンシアの中心街にあるValenciaCFのスタジアム。本当に街のど真ん中にポンと建っていて試合の日には街のど真ん中に3万とか4万人が集まって爆竹鳴らしたり、群衆が大声で合唱しながら街を闊歩したりする。住居もたくさんある街のど真ん中でだ。こんなことがまかり通る理由が、育ってきた環境が違うから僕には全くわけがわからない。

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街全体の特徴を言うとそんな所だろうか。あ、あと教会とか大聖堂とか、闘牛場とかスペインっぽい建物もある。そういうのは今日はいいや。(雑)

しかし、日本のようにうまくデザインされて秩序があるかというと全くそんなことはない。50m間隔でゴミ箱が設置してあるのに道にゴミは落ちてるし(なんなら犬のフンとかポンポン落ちてる)、道路の舗装は途中でほったらかしになってたりもする。夏場の夜、路地に出ると人間よりゴキブリの数の方が多いし、中心街に行くと物乞いをする人が100m間隔でいるし、人気のない所に行くとボロッボロの小屋からマリファナの匂いを漂わせたヤバそうな人たちがたくさん日向ぼっこしてる。暗いところの暗さは日本よりもずっとずっと闇が深い。

僕は、運よく日本という仕事が比較的たくさんある国の中流階級の家庭に生まれたことで、働いて得たお金を自分の留学費用に使うことができた。生活の保証がある状態で街に加わった人間は、きっとそういう環境のせいで生じるマイナスよりも享受できるプラスの面の方が大きいのだろう。

そういうことは頭でわかりつつも、オレンジの木が街に植っていたり、オームのような意味不明な形をした建物が立っていたり、完全に自分趣味のお店がたくさん集まっていたり、そういう、ああしたい、こうしたいと、という個人の衝動がぶつかり合う街に理想を感じる。住みたい街はどこだ、という話になると、規則正しく、最低点を底上げすることに労力を使われた街よりも、例え秩序とトレードオフであったとしても、衝動で動いた人がなんとか形にしたそれぞれにとって理想の場所がたくさんある街を選んでしまう。

そんなふうに思うのはきっと日本が、自分が恵まれた環境にいるからなんだろうなあ。




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