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AI時代の敬語縮小論:丁寧語だけでいい説【完全無料】

たまたま日本人が敬語を正しく使えなくなっている件について触れた文章を読んで、そもそも敬語のうち、尊敬語と謙譲語は(五分類なら美化語も)原則不要ではなかろうか、と考えたのでその話をする。

相手へのリスペクトを示すとしても、丁寧語、五分類で深入りするとしても丁重語までで十分だと思う。

現に、日本人AIユーザーの一定割合が人扱いしているChatGPTに、丁寧語(です・ます調)を使う人は時折いるが、尊敬語や謙譲語でChatGPTに語り掛けるという人はとんと聞かない。

もしかしたら世の中は広いので、実際にはいるのかもしれない。

が、少なくともプロンプトとしてみる限りにおいて、尊敬語や謙譲語の使用は、基本的に回りくどくなるだけである。
そこには実質的な指示に関する情報は含まれておらず、そういう意味でも、尊敬語・謙譲語は、直接的な指示の方が通りやすいLLM相手には不向きだろう。

翻って、それは人間の場合でも同じではなかろうか?

殆どの場合、人間にとっても敬語は形式的でくどいものであるし、現代のフラットな人間関係において、必要以上に相手を持ち上げたり、自分をへりくだらせたりすることには何の意味もない。

そもそも、そこに本当に尊敬・謙譲の感情を乗せている人はあまりいないだろうから、マナーとしての尊敬・謙譲は形骸化しているといってよい。

だから必要以上に形式ばった二重敬語のような過ちや、うっかりした自敬表現が発生する(興味深いことに、古語ではこれは必ずしも誤りではなかったのだが…それは別の話なので割愛)。

古い時代のマナーを重視するタイプの相手は別だが、そうでない相手には、変に間違った敬語でやり取りするよりも、シンプルな丁寧語だけでやり取りした方が余計な誤解も生まれないだろう。

また、旧来のマナーを重視する相手向けの文章でも、それこそ「正しい敬語」へのリライターをGPTsやClaude projectsとして作って書き換えてやれば、ほぼ事足りるはずである。

坂口安吾が「敬語論」で、社会の階層性と絡めつつ敬語廃止運動について触れていた節を引用する。

 奇怪な敬語や何やら横行し、日本の言葉が民主的でないと云うなら、日本人の生活がまだ民主的でないというシルシにすぎないものだ。
 敬語廃止運動が起るとすれば、新生活とか生活改善運動の一部として行われる以外に意味はない。全日本人の言葉を法則を定めて統一しようとするのはムリであるが、あるキッカケを与えて自然の変化をうながし待つことは不自然ではない。

坂口安吾『敬語論』より

LLMとの対話のみならず、上下関係に由来する各種ハラスメントが何かと問題となり、組織も風通し良くフラットにしようという動きが強まっており、AIにはもはや尊敬語・謙譲語を使わなくなっている今は、すでに安吾の言う「キッカケ」が与えられたと言ってよいだろう。

そして、フラットな形でリスペクトを示したいのであれば、丁寧語、五分類論を採用するとしても、丁重語までで十分であろう。

美化語、尊敬語、謙譲語は原則として不要であり、円滑でフラットなコミュニケーションを阻害するものでしかないと思う。

日本人がこれらの敬語を正しく使えなくなったのは、恐らくそのような価値観の反映であり、今こそ価値観相応に「必要な」敬語を縮小してもよいのではなかろうか?

補足

念のためいうと、本心から尊敬ないし謙譲したい場合に適切に使うのであれば、それ自体は問題ないと思う。
本来、敬意とは自然に湧き上がるものであって、形式的なマナーとして演じるものではないから、そういう自然な敬意を表現するための尊敬語や謙譲語は、使える人が使うのは自由である。

ただ、それは興味ある人向けの教養の領域に追いやって、日常的な日本語表現で必須の知識やマナーとしては、丁寧語だけで十分なのではないか、というお話である。

(なお、冠婚葬祭のような儀礼的な局面は意見が分かれ得ると思う。
「再現実装」++に提示されてなるほどなと思ったのだが、そのような局面では、敢えて旧来のフォーマルな敬語を使うことがあり得てもおかしくはない。
個人的にはそこも原則廃止でよいと思うが…)

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