若さ故の無知は武器
先日、『THE FIRST SLAM DUNK』を観に行きまして。
隣の若い子が「あっ」とか、「おっ」とか。
頑張って声を出さないようにしつつも漏れてしまうという状態になっていたのが羨ましく。
なんでそんな事になってるのかを考えたら一つしかなくて。
「こいつ、結果を知らないな」
湘北対山王といえば、僕の世代では当たり前に知ってる事ですし、その過程を誰もが話せて、その度に鳥肌が立つという経験をしています。
(言い過ぎかも)
(世代じゃないのに誰もが知ってる不思議)
(連載時期は1990年10月1日 - 1996年6月17日)
(山王との試合の時、僕は7歳)
だから、映画自体には感動したんですが、その内容にハラハラするという事はなく。
でも、隣にいた人はそれを全力で楽しんでいて。
「そんな楽しみ方を出来るのは若さ故だぞ。当たり前じゃないからな」
と、なぜか親戚のおじさん感をだしてしまったのです。
心の中でね。
年齢というのは重ねれば重ねるほど大切に思えてきて。
それは重ねれば重ねるほど終わりが見えてくるからだと思います。
昔は、先の事すぎてぼやけてたけど、近づくと輪郭がはっきりしてくる感じ。
僕はもうすぐ34歳になるんですが、もし今お店を開くかと聞かれたら、開く事はなくて。
あれは26歳の時だったから出来た事だと思うんです。
若さ故の無知。
あれは大きな武器だったんだと、今になると分かります。
お金の使い方と時間の使い方。
そのどちらも今ならもっと効率よく使えると思う。
だからこそ、今ならお店を開ける事はない。
でも、この考え方になったのはお店を開けたから。
なので、後悔もない。
昔は10万円の服を当たり前に買って、数年前には目が飛び出るほど高い自転車を買って、オープン当初は通勤に1時間半もかけてたし、営業時間も13時間とバカみたいに長かった。
でも。
それらを経たから今があり、今があるから未来を描ける。
何も知らずにいるのは確かに楽しい。
全てが新鮮で、先が分からず、初めて経験した時の高揚感は何事にも代え難い。
でも、それは続かない。
どうしても慣れてしまう。
いくつになっても挑戦とか、年齢を言い訳にするなとか。
そんな人生を送ってる人はいるし、たしかに出来ない事はない。
でも、確実に腰は重くなり、先が見えるからこそ諦める事がある。
だから、若くして色々な経験を積むことが大切で。
それによって描ける未来が変わるから。
こうなっていたら。ああしていれば。
数々のたられば。
それ自体の後悔よりも、それによって得られるはずだった経験のほうに重みがある。
それが34歳を迎えようとしてる今、感じる事でした。
だから、いくつになっても『今』が大事だと思えるようになりました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?