開いてるかな、誰がいるかな
「明日は行くんだ!」と、意気込まなくて大丈夫。
これは常々思っている事でして。
いや、そう思ってくれるのは嬉しいんです。
遠方の方でしたら、その気持ちになるのも分かりますし。
でも、飲みたい時に飲むのが一番美味しいと思っていまして。
うちの近所には「もうええわ」と突っ込みたくなるほど沢山のコーヒー屋さんがあります。
たまにそれらをはしごしてる人が来てくれまして。
手に他のコーヒー屋のカップを何個も持ったまま入ってくる子がいます。
でも、コーヒーはお酒と違って一日に何杯もは無理だし、そこに”連続して”
が加わると、果たして美味しく飲めてるのかが心配で。
飲み比べをしたい気持ちは分かるけど、ゆっくりと楽しむものだと思うんです。
まあ人によるか。
コーヒーを飲みたい時というのは、喉の渇きよりも、心の落ち着きを求めてる時だと思っていて。
そんな考えだから、前日に意気込む事に違和感を覚えると言いますか。
その時の気分によらない?
上がってるのか、下がってるのか、本を読みたいのか、何もしたくないのか。
目的がコーヒーを飲む事ではなく、どちらかと言うと処方箋に近い感覚なので、どこに行き、何を飲むかはその時まで分からない。
だからこそ、考えたくないんです。
開いてるかな、誰がいるかな。と。
この事は過去に何度も書いてるから、もういいか。
でも、日常の延長の美味しさを提供したいという事は、常に日常じゃなければいけないと思っています。
日常とは何かと言うと、考えなくても繰り返される日々の事で。
僕の場合、当たり前にごはんを作ってくれた母親がいて、当たり前に働いていた父親がいて。
今となっては感謝をしているけれど、当時はそれを日常だと思っていて。
その当たり前の日々は、生活する上で心地よく、というか、不可欠。
どちらかが欠けていたら、僕の心は平穏を保てなかったと思います。
それと同じように、うちが開いてる事で、心の平穏を保ってる人がいて。
毎日来る人はもちろん、週に一度だろうが、月に一度だろうが、当たり前に開いてると疑わない人がいて。
ふと思い立った時に寄ってくれてるんです。
きっと心の平穏を保つために。
その使われ方はなんとも嬉しいもので。
プレゼンテーションに特化したり、一杯数千円のコーヒーを提供していたら、きっと使われ方は変わっていたと思います。
どちらが上とかじゃなくてね。趣味や性格の違いです。
場所だけでなく、物だけでなく、人だけでなく。
お店というのは、そのどれもが違和感なく調和した状態が良いのではないかと思います。
日常の延長の美味しいものを、日常を感じる場所で、いつもの人が提供する。
こんな事を書いてるから休めなくなるんだよな。
日常を提供するという事は、僕の日常を犠牲にするという事だ。
でも、両親はそれをやってたからな。
いや、子育てと仕事は違うか。
まあ、僕も犠牲だなんて思ってはないんだけどさ。
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