読書感想文『環境心理学』
きっかけ
行動観察の本を読んでいた際に、環境心理学という学問があることを知り、興味を持った。
環境に対して人間がどういう影響を受けるのか、というところに興味があり、それが体系化されてるのであれば、再現性高く、自分の活動にも活かせるのではないか、と感じ、本を読んでみた。
気づき
ある、2点間を移動するときを考えて、直線的に移動できる場所なのか、曲がり角が何箇所もある場所なのか、でその認知される距離は後者の方が長くなるということである。(もちろん物理的な移動距離は同じなのにも関わらず)
確かにこういうことあるよな、と体感的に捉えてはいたが、それが環境心理学の分野で研究されているとなると、気のせいとは言えなくなってくる。
いや、”認知=気”だと捉えると確かに、それは気のせいなのだが、その気のせいというものが、実際に人に影響を与えて、行動も変えてしまう、ということに留意する必要があると言えそうだ。
ただただ、未知の怖いものはミステリーを感じる前に恐怖になるが、未知だが、なんだか親しみがあったり、敵対する存在では無いことが分かると、ミステリーと感じやすい。
不思議な魅力を作り出すには、この考え方が大事なのかもしれない。
不思議さを押し出すがあまり、どんどん奇をてらったものに寄せていき、安全を犠牲にすることを美しいと捉えてしまうと、度が過ぎるとそれは、人を惹きつけにくい存在となってしまう。
何につけてもバランスというのは、重要である、というかなり抽象的かつ一般的な論になってしまうとやや寂しい気がするが、それはおそらく本質的なことなのだろう。
ただ、バランスを取るというのは実は結構難しい、というか常に気を張っていないといけないという体感がある。
土台をどっしりさせて、中庸を狙った場合、陳腐なものができがちである。
バランスを取るという姿勢には、XYZの空間的な軸もそうなのだが、Tという時間軸も重要であると思う。
時間の経過によって、変化していく環境、状況、人に合わせてバランスする、というのは、繊細な筋肉を使うし、常に360度気を配る必要がある作業だ。
バランスを取る、というのは非常に動的な行為だと捉えておいた方がいいと僕は思う。要はそう易易と安心できない状況に自分を置くことと等しいといえよう。
やること
物理的に計測できるものと認知的なものは異なる、という認識を頭に入れておく必要がありそうだ。
自分と他人の認識が異なっているとき、自分の方が正しいデータを持っていると思われるとき、その場にある認知に気を配ること。
なにか創り出すものは、陳腐すぎても刺激的すぎてもおもしろさは生まれない。だから、そのバランスの悪い部分に自分から飛び込んでいって、バランスを取り続ける。
そうすれば、バランスを取る筋肉が育っていくだろう。